「PRONOTE jet mini」が、事業として失敗した理由を探ると、そこには、「シーズ優先のモノづくり」であったことが反省点としてあがる。

そもそも特別プロジェクト室は、日本IBMのOEM生産を行う組織として発足し、それ以来、11年間に渡り、先進技術を追い続け、モノづくりに特化した組織として活動してきた。いわば、製品企画やマーケティング、一般営業といった機能とは、無縁の組織でもあったのだ。

「PRONOTE jet mini」は、世界最軽量の1.29kgを実現するなど、パナソニックが持つ最先端技術を見せつけるには象徴的な製品となった。

だが、「これだけ軽量化すれば、お客様は喜んでくれるだろう」というシーズに基づいたものであり、使う立場でのニーズは反映されていなかった。

開発チームは、そこに失敗の要因があることに気がついた。

  • 初代レッツノート「AL-N1」

    初代レッツノート「AL-N1」

「お客様」に気づかされた失敗の理由

創業者である松下幸之助氏は、「お客様大事」を打ち出し、「会社がどんなに大きくなっても、一人ひとりの社員がお客様の要望に対して謙虚に耳を傾けることが大切である」と語り、それが社内に浸透している。開発チームが、一度失敗した理由に気がつくのに時間はかからなかった。

そのころ、パソコン通信のニフティサーブ(現ニフティ)では、パナソニック製パソコンに関するフォーラム「FPANAPC(エフパナピーシー)」が開設されていた。

当時は、パナソニックブランドのAVパソコン「WOODY(ウッディ)」が注目を集めており、フォーラムでの話題も「WOODY」が中心となっていた。

だが、あるとき、法人向けルートでしか販売していなかった「PRONOTE jet mini」を、どこからか入手した個人ユーザーが書き込みをはじめた。「PRONOTE jet mini」の軽量、サイズ、性能などの良さを評価する一方、使っていてマイナスに感じる部分をひとつひとつ書き出し、フォーラムに投稿していった。

バッテリー駆動時間の短さや、トラックボールにゴミが溜まりやすいこと、PCMCIAポートに挿入されているダミーカードを無くしやすいこと、背面のインターフェース部のカバーが取れやすいことなど、細かい指摘が相次いだ。

開発チームは、これらの意見を解決することが、これから作り上げる「最後の製品」を、成功に導く道筋になると考えた。

さらに、法人向けルートとなるシステム販社の声を聞くだけでなく、東京・秋葉原の専門店や量販店にも足を運んだ。

そこでは、厳しい声が相次いだ。そして、それは技術の観点から見れば想定外の声もあがってきた。

たとえば、「小さいくせに、バッテリー駆動時間が短い」という声だ。筐体サイズを小さくしたり、軽量化を目指したりすると、搭載できるセルの数が減り、バッテリー駆動時間は短くなる。だが、一般的な発想は、小さくなれば、その分負荷が減り、バッテリー駆動時間は長くなるはずという発想だった。つまり、「PRONOTE jet mini」の仕様は、小さいわりには、バッテリー駆動時間が短く、価格も高いというマイナス要素として捉えられていたのだ。

また、完成したプロトタイプを販売店に持ち込んだところ、「そのスペックでは売れない」と一蹴されたこともあったという。

1996年2月に完成させたプロトタイプは、CPUにはPentium(90MHz)を採用し、8.4型DSTN液晶ディスプレイを搭載していたが、販売店の目利きたちは、発売時点では、Pentium(120MHz)が主流になることを知っており、そのままでは「非力」と評価。8.4型液晶ディスプレイの搭載も「不細工」と厳しく切り捨てた。

開発チームは、すぐにプロトタイプを作り直した。発売は、1996年6月に設定されており、残り4カ月での大幅な仕様変更である。開発チームは、休日返上で開発を進めていった。

とくに課題となったのが、「不細工」と表現された液晶ディスプレイだった。

TFT液晶の画面表示を制御するための駆動用ICチップを、ディスプレイの横に配置する必要があるため、10.4型に拡大すると、額縁がさらに大きくなり、17mmピッチのキーボードをもとに決定した横幅サイズのバランスが崩れ、筐体そのものを大きくしなくてはならない問題が発生することになる。結果として、10.4型TFT液晶ディスプレイを採用すると、サブノートの枠を超え、A4ノートのサイズになってしまうのだった。

製品コンセプトそのものに影響するこの課題を解決したのが、パナソニックグループ内の液晶事業部門であった。中小型液晶パネルの開発をしていたところだった。同部門では、駆動用ICチップなどをパネルの裏面に配置する改良を加えたレッツノート向けの特別なカスタマイズ製品を用意。その結果、狭額縁化を実現でき、筐体サイズを大きくせずに、10.4型TFT液晶ディスブレイの搭載が可能になったのである。「AL-N1」のカタログに、「大きな顔して、最軽量」というメッセージを入れたのも、サブノートとしては異例の10.4型TFT液晶ディスプレイを搭載した開発チームの自負が感じられる。

また、従来の用途を考えると画面解像度はVGAで十分であったが、インターネット時代の到来を見据えて、ここにもメスを入れた。ブラウザを表示した際に、間が抜けた表示にならないように、高精細のSVGAを採用することにもこだわったのだ。これも、パナソニックグループの液晶事業部門にとっては初めての挑戦だったという。しかも、プロトタイプの作り直しを決定してから発売まで、わずか4カ月で作り上げる離れ技をやってみせた。

さらに、バッテリー駆動時間の長時間化にも取り組んだ。

「PRONOTE jet mini」に採用していた「3直1パラ」のリチウムイオン電池を2本搭載。これにより、バッテリー駆動時間を6時間にまで拡大した。

この電池を開発、生産したのもパナソニックグループ内の部門であり、こうしたグループ内の技術が、「尖った」レッツノートの製品化をしっかりと下支えした。

FPANAPCの参加者の意見を聞いて、「PRONOTE jet mini」から「レッツノート」に継承された仕様のひとつが、各種インターフェースの搭載である。

モデムと接続するためのシリアルポートや、プリンタに接続するためのパラレルポート、そして、ディスプレイに接続するためのVGAポートは、レッツノートでも継承し、本体に内蔵する形で搭載した。

ポートデュプリケーター(拡張アダプター)によって、これらのインターフェースをカバーするのではなく、すべてを内蔵し、それでいて、軽量化にもこだわるのがレッツノートの真骨頂だ。モバイルでの利用を強く意識したモノづくりであることがここからもわかる。

ちなみにレッツノートがVGAポートを廃止したのは、2025年5月に発売した「レッツノートSC」と「レッツノートFC」のときである。いまからわずか1年前のことだ。29年間に渡り、レガシーなポートを搭載し続けたのは、レッツノートのこだわりだ。まさに、用途を想定した「お客様大事」の精神が浸透したモノづくりだ。

このようにして、レットノートは、Windows 95時代において、快適に利用できる性能と、バッテリー駆動時間、軽量化を追求した仕様を固めていったのだ。

「レッツラー」とともに、異例を重ねたレッツノートの船出

開発メンバーは、サブノートの時代が到来することに疑いは持っていなかった。出張時に持ち出し、新幹線で利用したり、海外出張に出かけて、飛行機のなかで利用したりといった用途が、これから増加することを信じていた。だからこそ、まだ生まれて間もないサブノートの火を消してはいけないとも考えていた。

しかし、「PRONOTE jet mini」の事業としての失敗の傷は癒えていない。そして、残されたチャンスは、一度だけである。

「最後の製品」への挑戦では、ニーズをいかに取り込めるか、そして、シーズとニーズを、いかに高い次元で融合するかが求められた。そんななか、開発チームは異例ともいえる手段に打って出た。

それは、ニフティサーブの「FPANAPC」をベースにした裏会議室の設置だった。

参加者を10人程度に限定したオンライン上の会議室であったが、開発者自らが発言し、時には企画段階の設計図や仕様までを公開し、意見を求めた。

当時のことである。守秘義務契約書などは存在せず、信頼関係をベースに、極秘の技術情報をやりとりしていたことになる。技術者の一人は、「いまならば、社内情報の漏洩として大問題になる事案」と、苦笑しながら振り返る。

ここへの参加者は、その後、「レッツラー」と呼ばれるレッツノートの熱烈的ファンの走りともいえる存在といえた。そして、このときの経験が、その後のレッツノートの基本姿勢となる「顧客の声を聞いたモノづくり」の原点ともなっている。

事業の観点から、初代レッツノートに与えられたテーマは、「値崩れさせずに、売り切ること」だった。

1996年6月に発表した初代レッツノート「AL-N1」のニュースリリースには、年間出荷台数で3万台という数字が示されているが、当時の担当者に取材すると、「売り切ることが前提であったため、そこまでの台数は生産していなかったのではないか」との声も聞かれた。

レッツノートの船出は、極めて慎重なものであったが、それに反して、出足は凄まじかった。

販売が開始されたのは1996年6月25日。販売店店頭では、予想を上回る人気となり、1996年8月には、秋までの生産予定台数をすべて売り切り、店頭からはレッツノートが無くなるという事態が発生した。まだ、SNSがなく、情報が少ない時代である。この状況を見た人たちの間では、生産中止になったとの不穏な憶測すら出るほどだった。

評判の良さを見て、量販店の担当者もレッツノートの販売を積極的に支援した。秋葉原の大手量販店では、DOS/Vパソコンでは新参者となるレッツノートを、店頭1階入口に、箱積みをして販売をしてくれたケースもあった。

このとき、真っ向から対抗する製品となったのが、日本IBMのB5ノートパソコンの「ThinkPad 535」である。

1996年5月に発売された同製品は、Pentium(120MHz)を搭載、10.4型TFT液晶を搭載して、メモリーは8MB、重量は1.7kgであった。

これに対して、「レッツノートAL-N1」は、CPUや液晶は同等だが、メモリーは16MBを搭載し、重量は1.47kg。豊富なインターフェースでもレッツノートでは優位性を発揮。実売価格では、「ThinkPad 535」を下回るということも、レットノートの販売増にはプラスに働いた。

このころになると、NECや富士通、東芝、シャープ、コンパック、日本DECなどがサブノート市場に参入しており、こうした動きもサブノートの盛り上がりに弾みをつけた。

特別プロジェクト室が仕掛けたレッツノートによる最後の挑戦は、見事に成功したのである。

  • レッツノートAL-N1の当時のカタログ

    レッツノートAL-N1の当時のカタログ

実は「サイバーギア」だった? 直前に決まった「Let's note」

実は、レッツノートの製品名は、発売直前まで決まっていなかった。

ニュースリリースへの記載は間に合ったが、生産開始時点では決定しなかったため、最初のロットに関しては、「Let's note」のロゴを、あとからシールで貼付したという逸話が残る。

製品名は、社内公募に加えて、裏会議室に参加していたのちの「レッツラー」たちからも募集した。最終選考のなかでは、「レッツノート」のほかに2つの候補が残った。そのひとつが、「サイバーギア」だったという。

だが、「サイバーギア」の商標は、パナソニックのテレビ事業部が持っており、使用を打診したものの、残念ながら、使用が認められなかったという。この逸話からも、かなりの確度で、製品名が「サイバーギア」に決まりかけていたことがわかる。生産開始時に、製品名が決まっていなかった理由も、ここにありそうだ。

最終的には、営業部門のトップが、「レッツノート」の製品名の採用を決定したという。

法人向けには、情報機器事業部の「プロノート」があり、特別プロジェクト室がビジネスコンシューマ向けに投入する製品として、横並びの表記として違和感が少ない「レッツノート」という名称に決めた狙いもあるだろう。

ちなみに、このときの訴求は「みんなのレッツノート」であり、コンシューマを意識した製品であったことがわかる。当初のロゴが、曲線を用いたやわらかいものになっていたのもそのためだ。パナソニックでは、1999年9月の「CF-A1」の発売にあわせて、現在の直線基調のロゴに変更しているおり、そのころから、レットノートは、新たなロゴのイメージに象徴されるように、ビジネスモバイルへのフォーカスをより強めている。

  • レッツノートの初期のロゴ。曲線を用い、やわらかい印象がある

    レッツノートの初期のロゴ。曲線を用い、やわらかい印象がある

レッツノートは、直訳すると「ノートしよう」となるが、そこには、「世界中のビジネスパーソンのカバンに、紙のノートのように収まりがよく、持ち運べるパソコン」という意味を込めたという。

「世界中のビジネスパーソンが持ち運ぶパソコン」が、いまから30年前に、レッツノートが掲げた目指す姿である。