レッツノートとタフブックの30年間に渡る歴史を辿る前に、今回は、パナソニックグループのパソコン事業の歴史を紐解いてみる。

パナソニックのコンピュータの「源流」を探る

パナソニックのコンピュータへの取り組みの源流を探ると、1959年4月に完成した「MADIC-I」に辿り着く。松下電器産業通信事業部東京研究部(のちに松下通信工業、パナソニックモバイルコミュニケーションズを経て、現在はパナソニックコネクト)が開発した小型トランジスタ計算機であり、これをベースに、1961年10月に完成したMADIC-IIAが、同社初の商用コンピュータと位置づけられている。

だが、創業者である松下幸之助氏は、1964年に、コンピュータ事業へと参入している国内企業が多いことなどを理由に、コンピュータ事業からの撤退を決断。その代りに、家電事業への投資を加速することにした。

とはいえ、1968年には、松下通信工業が、交通制御などのコントローラとしての役割を果たす16ビットミニコン「MACC-7」を開発。1973年7月には、富士通との合弁により、パナファコム(現PFU)を設立して、1977年には世界初の16ビットマイコンを搭載したワンボードマイコン「LKIT-16」を発売するなど、コンピュータ事業の新たな土台を築いていった。

とくにパナファコムは、富士通が35%、富士電機が15%、松下電器産業(現パナソニックホールディングス)が20%、松下通信工業が25%、松下電送機器が5%を出資する、いわば折半での設立。しかも、松下電工の丹羽正治社長がパナファコムの会長を務め、富士通の高羅芳光社長が社長を兼務したほか、出資各社の社長全員が取締役に名前を連ねており、その力の入れ具合からも、パナソニックが、再びコンピュータ事業に取り組む姿勢を明確にしたともいえる。

さらに、パソコン時代の到来とともに、パナソニックグループは、その動きを加速させていった。

1978年には、松下通信工業が「マイブレーン」シリーズを発売し、パソコン事業への参入を果たしたのは、そのなかでも象徴的な動きだ。

パソコンの第1号機となった「マイブレーンJD-700」および「同JD-800」は、8ビットCPUである8085を搭載。基本ソフトウェアとして、会話型拡張BASICとCP/Mを採用。インテリジェント端末として活用され、給与計算、生産管理、在庫管理などの事務用途で貢献した。「マイブレーン」シリーズは、その後、16ビット化して、1983年には、8088を搭載した「同JB-3000」を発売。これが同シリーズ最後の製品となったが、1984年にはMS-DOSを搭載した「JB-5000」を発売し、生命保険会社や金融機関におけるオンライン端末として導入された。

  • パナソニックのパソコン第1号機となった「マイブレーンJD-700」

    パナソニックのパソコン第1号機となった「マイブレーンJD-700」

一方で、松下電器産業自らも、1978年に、第2特機開発部を設置し、オフコンの「BC」シリーズを開発。当時では珍しかった日本語入出力を行うために、独自のOSや言語を採用したほか、簡易入力デバイスである「キーマット」や、漢字プリンタも品揃えした。

さらに、米国市場向けには、1981年に、ハンドヘルドコンピュータ「RL-H1000」を発売。1983年には、IBM PC互換のポータブルパソコン「シニアパートナー RL-H7000」、1985年には松下電子工業が開発したプラズマディスプレイを採用しラップトップパソコン「エグゼクティブパートナー FT-10」、1986年にはデスクトップパソコン「ビジネスパートナー FX-600」を発売していた。

だが、1987年になり、米国が、日米半導体協定違反を理由に、日本製パソコンに100%の報復関税を実施。そうした背景もあり、パナソニックブランドのIBM PC互換機の製品化を一時中断することになった。その後は、ニクスドルフやタンディ、シーメンス、AT&T、パッカードベルなどへのOEM事業を進めることとなる。

一斉に芽吹いた「パソコン」のうねり、百花繚乱の時代へ

パナソニックブランドによるIBM PC互換機の事業を再開したのは、1989年に発売したノートパソコン「CF-150」である。同事業は、松下電器産業のコンピュータ事業部が担当している。その後、軽量化と高性能を両立したノートパソコンとして進化させ、1994年にはCD-ROMドライブを内蔵したノートパソコン「CF-41」を発売して話題を集めた。

また、松下通信工業でも、パソコン事業に参入している。同社電卓事業部が、1981年に、パソコン入門機と位置づける「JR-100」を発売。独自に開発したBASIC言語を内蔵し、図形化したり、カセットテープレコーダーへのプログラムの収納や再生を行ったり、プリントアウトなどの各種命令ができるようにした。専用ゲームソフトも用意したという。1983年にはハンドヘルドコンピュータ「JR-800」も製品化している。

  • パソコン入門機として1981年に発売された「JR-100」

    パソコン入門機として1981年に発売された「JR-100」

富士通との合弁会社であるパナファコムも、パソコン事業に参入。同社が開発した製品を、松下電器産業の情報システム販売センターが販売を担当する自社ブランドのオフィス向け多機能パソコン「オペレートシリーズ」として製品化している。MPUやシステムLSIの開発には、松下電器の技術者が参画。1983年には、パナファコムの「C-280」と同じ機種を、「オペレート7000(当初はNATIONAL C-7000)」として発売した。富士通では、同じ製品を「FACOM 9450II」として発売している。

オペレート7000では、「1台5役、同時に2役」をキャッチフレーズとして、複数のオフィス業務を行えるコンピュータであることを訴求。「パーソナルエイジをひらく、最新鋭パーソナルコンピュータシリーズ」と位置づけた。

  • 当初はNATIONAL C-7000として発表された「オペレート7000」。パナファコムからは「C-280」、富士通からも「FACOM 9450II」として発売された

    当初はNATIONAL C-7000として発表された「オペレート7000」。パナファコムからは「C-280」、富士通からも「FACOM 9450II」として発売された

  • 「NATIONAL C-7000/C-280」のニュースリリース

富士通とのパートナーシップでは、松下電器産業のパーソナルコンピュータ部が、1987年に、富士通FMRシリーズ互換のPanacom Mシリーズを発売。デスクトップパソコンの「M500/M700」に続き、1988年にはラップトップパソコンの「M353」も発売している。

  • 富士通とのパートナーシップで製品化したPanacom Mシリーズ。1987年にデスクトップパソコンの「M500/M700」を発売し、翌年にはラップトップパソコンも

1980年代から1990年代にかけてのパナソニックのパソコン事業は、富士通との強いつながりの中で展開していたことがわかる。

だが、富士通が、FMRシリーズの事業を縮小し、DOS/VパソコンであるFMVシリーズへと主軸を移行するのに伴い、パナソニックもFMR互換パソコン事業を終了させた。

なお、同じ「Panacom」シリーズの製品名では、1993年にパナソニック初のDOS/Vパソコンとなる「Panacom V21P(愛称はJET)」を国内市場に販売した経緯がある。これをきっかけに、パナソニックの国内ビジネスパソコン事業は、DOS/Vに一本化することになる。

一方、1983年には、松下電器産業のPC開発部が、MSX仕様のホームパソコン「CF-2000」を発売した。MSXは、マイクロソフトとアスキーによって提唱されたホームパソコンの共通規格だ。パナソニックでは、MSX規格の第1号製品となる「CF-2000」のニュースリリースのなかで、「MSXパソコンを、パソコンの本命と考え、家電量販店を中心に積極的に推進していく」と宣言していたように、得意の家電販売ルートを活用しながら、継続的に製品を投入。1985年には、進化したMSX2規格に対応するとともに、1986年にはMSX2+規格の「FS-A1」を発売した。MSXパソコンは、当初は「National」のブランドで展開し、「キングコング」の製品名を用いていたが、「FS-A1」では、「Panasonic」ブランドによる展開を開始した。1990年10月には、16ビットのMSXturboRに準拠した「FS-A1ST」を発売している。MSX規格が発表された当初は、国内で16社が賛同し、14社がMSXパソコンを投入していたが、パナソニックが唯一、最後までMSXパソコンを出し続けたメーカーとなった。

  • MSX仕様のホームパソコン「CF-2000」。パナソニックとしてはMSX規格の第1号製品となった

    MSX仕様のホームパソコン「CF-2000」。パナソニックとしてはMSX規格の第1号製品となった

  • 「CF-2000」のニュースリリース

ユニークなところでは、1988年にも国産OSと位置づけられたBTRON仕様に準拠したOSを開発。Panacom M-500をベースにしたハードウェアで動作させていたほか、1989年には、米Beが開発したBeOS(ビーオーエス)を搭載したUNIXワークステーションを発売。さらに、1994年3月には、3DO事業推進室(1994年4月からはインタラクティブメディア事業部)が、3DO規格のゲーム専用機「3DO REAL」を発売している。

話題を集めたパソコンのひとつが、1994年5月に発表したマルチメディアパソコン「WOODY(ウッディ) CF-V31」である。

松下電器産業の情報機器事業部が製品化したもので、14型モニター、CD-ROMドライブ、音声多重TVチューナー、ドームスピーカーなどを一体化したオールインワン型AVパソコンだ。パナソニックのAV技術をふんだんに盛り込んだ戦略的製品だった。

前面パネルのボタンを押すと、パソコンとテレビ、CDプレーヤーを切り替えられるのが特徴で、ダレイクトに静止画を取り込める「キャプチャー」ボタンも付属していた。

1995年には、書き込みが可能なPDドライブを内蔵した「WOODY CF-V32D」を投入したほか、キーボード部を持ち上げて内蔵したCR-ROMドライブを利用できる「WOODY note」を発売。1996年にはタワー型の「WOODY PD」もラインアップした。

発売当初は、WOODYのメインキャラクターにはウッディー・ウッドペッカーを採用。「マルチメディアをつっつこう」をキャッチフレーズにしており、大々的に訴求していたことからも、パナソニックがかなり力を入れていたことがわかる。

  • 1994年5月に発表したマルチメディアパソコン「WOODY(ウッディ)」。当時は言葉として「マルチメディア」はまさに流行語であった

    1994年5月に発表したマルチメディアパソコン「WOODY(ウッディ)」。当時は言葉として「マルチメディア」はまさに流行語であった

一方、パソコン本体ではないが、1993年3月には、パソコン周辺機器の総合シリーズとして、「P3(パナソニック ペリフェラル プロダクツ=ピースリー/ピーキューブ)」の展開が始まった。海外で実績を持つパソコン周辺機器を、国内でも本格展開するために、松下電器産業システム営業本部がリードし、松下寿電子工業、九州松下電器、松下通信工業、松下電器ディスプレイ事業部、松下電子応用機器など、10事業の製品を集約。ハードディスク、ディスプレイ、CD-ROMドライブ、プリンタ、モデム、カードリーダー、グラフィックアクセラレータボードなどを商品化し、DOS/V向けだけでなく、PC-9800シリーズ向けやマック向けの周辺機器もラインアップしていた。

前回の記事でも触れたように、レッツノートの流れを汲むのは、1983年からスタートした特別プロジェクト室である。日本IBMからの受託生産を事業の主軸に据えた組織であったが、そのほかにも、海外メーカーからのIBM互換パソコンの受託生産や、サン・マイクロシステムズのSPARC互換ワークステーションの受託生産なども行っていた。

さらに、国内市場向けには、1997年に、PHS内蔵のパーソナルコミュニケーター「ピノキオ」を発売。新たな市場開拓にも乗り出している。

一方で、1997年2月に、新設したパナソニックコンピュータカンパニーは、特別プロジェクト室(1996年4月からは情報周辺機器事業部)のレッツノートの技術者の異動などによって設立した組織であり、台湾のODMを活用した新たなパソコン事業に挑戦。AVノートパソコン「HITO」シリーズを市場投入した。また、トヨタ自動車などとの異業種合同プロジェクト「WiLL」向けの液晶ディスプレイ一体型PC「WiLL PC」も、同部門が担当していた。

パナソニックでは、2002年2月に、コンピュータ事業に関する組織の一本化を図り、ITプロダクツ事業部を発足した。それとともに、パソコン事業をレッツノートとタフブックに絞り込んで展開しはじめた。

また、2017年4月のパナソニックグループ全体での社内カンパニー制の導入によって発足したコネクティッドソリューションズ社が、パソコン事業を担当し、モバイルソリューションズ事業部が同事業を担当。2022年4月には、パナソニックグループが、持株会社制(事業会社制)をスタートし、パナソニック コネクトがパソコン事業を担当し、現在に至っている。

パナソニックのパソコン事業は「一本の大きな川」へ

こうしてパナソックのパソコン事業の歴史を振り返ると、1970年代後半から1990年代にかけて、様々な事業部門から、様々な仕様の製品が登場し、それが徐々に集約され、2002年以降、流れが一本化したともいえる。

複数の水源から生まれた小川が重なり、ひとつの川を形成し、さらに一本の大きな川となった様相に近い。

  • パナソニックグループのコンピュータ関連事業組織の変遷

    パナソニックグループのコンピュータ関連事業組織の変遷

もともとパナソニックは、1933年に、日本の企業としては、先行して事業部制を導入し、独立採算制による自主独立経営へと移行した経緯がある。長年に渡り、事業部や子会社同士が競い合いながら成長したり、新たな市場を開拓したりという構図があり、それが高度成長期のパナソニックの事業拡大の原動力になっていたのは確かだ。

だが、セクショナリズムが浸透し、その結果、他の事業部がどんな製品を作っているのかがかわからないという状況が生まれていたのも事実だ。

たとえば、ワープロ専用機では、松下電器産業、九州松下電器、松下通信工業の3社が、それぞれに独自の製品を発売。規模が小さかった空気清浄機市場でも、松下精工、松下電工がそれぞれに製品化。社内会議では、他社製品とともに、他の事業部門が作った同じ「National」ブランドの製品を、競合製品として資料に記載されることが普通だったほどだ。

それは、パソコン事業の黎明期にも、同じことがあてはまり、様々な事業部門が、独自にパソコン事業をスタートし、その結果、様々なパソコンが林立することになった。

しかし、時代の変化とともに、パナソニックのパソコン事業も一本化の道を辿って行ったのである。そのポイントが2002年2月のITプロダクツ事業部の発足となる。

パナソニックグループでは、製品の型番は、事業部ごとに割り当てられる傾向がある。そのため、レッツノートやタフブックの型番から、組織の変遷を見ることができる。

たとえば、初代レッツノートとなった「AL-N1」は、特別プロジェクト室の流れを持つ情報周辺機器事業部が担当していた製品であり、「AL」という型番がつけられていたが、1997年2月に情報機器事業部と情報周辺機器事業部などの統合によって、パーソナルコンピュータ事業部が発足してからは、情報機器事業部が使用していた「CF」型番へと移行している。また、タフパッドの一部モデルでは、「FZ」の型番となっていたが、これは、当時のパナソニック システムネットワークスが開発した製品であったことが由来となっている。

  • 初代レッツノートとなった「AL-N1」

    初代レッツノートとなった「AL-N1」

ただ、レッツノートの前身となるPRONOTE Jet miniは、特別プロジェクト室で開発されたにも関わらず、当時の情報機器事業部の型番であった「CF」を冠した「CF-11DS32」として発売されている。これは、企業向けノートパソコンである「PRONOTE Jet」が情報機器事業部のブランドあったこと、特別プロジェクト室が販売ルートなどを持たないため、その点では、情報機器事業部のリソースを活用しており、カタログなどにも担当事業部門として、情報機器事業部が明記されていたことなどが影響していると見られる。

レッツノートには、ThinkPadの血が流れている?

ところで、レッツノートの登場は、当時は、「モバイル」という言葉が、まだ一般的ではなかった時期に、軽量化と高性能を両立したパソコンとして投入され、のちに「ビジネスモバイル」という新たなカテゴリーを生み出す商品へと成長することになった。それは、日本のビジネスマンに最適化したモバイルパソコンの誕生につながったといえる。

実は今回の取材を通じて、感じたことがある。それは、レッツノートには、ThinkPadのフィロソフィーが息づいているということだ。

これまで触れてきたように、レッツノートの開発チームの所属は、特別プロジェクト室であり、そこでは、日本IBMからのOEM生産を長年に渡って行ってきた。

つまり、日本IBMによるThinkPadの設計手法や評価手法などが蓄積されているチームが作りあげたのが、レッツノートである。特別プロジェクト室があった守口工場には、ThinkPadなどの開発に用いられてきた厳しい耐久試験のノウハウや設備があり、これがレッツノートの開発、生産にも用いられてきたであろうことは容易に想像できる。実際、開発工程や試験工程では、IBMが使用している専門用語が、そのまま利用されているという証言もある。

そして、当時のある関係者は、「レッツノートには、ThinkPadの血が流れている」とさえ、比喩する。

レッツノート誕生において、特別プロジェクト室が持つIBMパソコンの受託生産によって、蓄積してきた長年のノウハウが生かされいることは、見逃せない事実である。

これまでの記事のなかでは、、レッツノートとともに、もうひとつの主役であるタフブックにまったく言及してこなかった。

次回は、いよいよタフブックに触れる。

タフブックの第1号機は、1996年9月に発売した「CF-25」である。担当していたのは情報機器事業部だ。IBM互換機のOEMビジネスの収束が進みつつあるなか、英国で獲得した大型案件が源流となり、その歴史はスタートした。

(続く)