いまからちょうど30年前の1996年6月11日――。松下電器産業(現パナソニックコネクト、以下パナソニック)は、カラーサブノートパソコン「AL-N1」を発表した。
これが、ビジネスモバイルPCとして圧倒的な実績を持つ「レッツノート(Let’s note)」の第1号機の誕生である。
サブノートと表現しているように、レッツノートの位置づけは、屋外に持ち出して使うための軽量ノートPCだ。デスクトップをメインマシンとして利用する先進的なパワーユーザーが、外出する際にセカンドマシンとして利用する用途での提案であった。
Windows 95ブームのさなか、「本当に持ち歩けるパソコン」を目指して
初代レッツノートは、10.4型TFT液晶ディスプレイを搭載したB5サイズのノートPCであり、当時としては、業界最軽量となる1.47kgを実現。CPUにはインテルPentium(120MHz)を搭載し、16MBのメインメモリ、810MBのハードディスクを内蔵していた。価格は39万8000円。バッテリーパック2本を使用することで、最大6時間の連続使用が可能になる。軽量化と長時間バッテリー駆動を両立したレッツノートは、狙い通りに、パワーユーザーの関心を集めていった。
振り返ると、前年の1995年11月23日には、日本でWindows 95が発売となり、秋葉原電気街などでは、深夜0時のカウントダウン発売イベントが行われ、パソコン市場は盛り上がりを見せていた時期でもある。
そこに持ち運びが可能な高性能サブノートが登場したのだから、その注目ぶりは大きなものとなった。
「AL-N1」のニュースリリースでは、「本当に持ち歩ける軽量かつコンパクトなノートパソコンの需要が高まっていくものと考え、デスクトップパソコン並みの性能が発揮できるカラーサブノートパソコンを発売する」と謳っている。
当時は、軽くても重量は2kg程度、画面サイズもVGA(640×480ドット)のSTN液晶が一般的だったノートパソコンにおいて、B5サイズで1.5kgを切る軽さと、GUI環境でも視認性が高いSVGA(800×600ドット)によるTFT液晶を搭載し、2本のバッテリーパックにより長時間駆動するという仕様は、パワーユーザーたちに刺さった。
初代のレッツノートは、「AL-N1 T512」という型番で発売され、想定以上のヒットとなった。これを受けて、1996年10月には、CPUをインテル Pentium(133MHz)にアップグレードした「AL-N1 T513」を投入。さらに、1997年2月には、Pentium(150MHz)に強化した「AL-N1 T515」へと進化させた。そして、いずれもヒット商品となり、レッツノートの存在感が一気に高まったのである。
だが、レッツノートの登場は、決して順風満帆といえる状況での登場ではなかった。
「これで最後になるかもしれない」、実は崖っぷちだったパソコン事業
1996年6月11日のレッツノートの発表に際して、メディアを対象にした製品発表会見は行われていない。広報活動は、リリースの投げ込みと、一部のパソコン誌の編集部に対して説明に出向いた程度の活動に留まっている。Windows 95の発売で盛り上がるパソコン業界において、パソコンメーカー各社が大々的に新製品発表会を開くなかで、極めて地味なスタートだったといっていい。
そして、なによりも、レッツノートは、「これで最後になるかもしれない」という、特別プロジェクト室の存続を左右する、いわば崖っぷちの製品として登場したものであったのだ。
レッツノートが誕生した背景を探るためには、当時のパナソニックのパソコン事業の状況を知っておく必要がある。
パナソニックのパソコン事業は、1978年9月に設置した第2特機グループが発端だ。そのほかにも、パナファコム(現PFU)を源流とするパソコン事業、松下通信工業が「マイブレーン」などのブランドで展開してきたパソコン事業など、異なる流れを持つパソコン事業が林立する。この流れについては、連載第3回でまとめることにする。
そのなかから、レッツノートの誕生につながる流れを辿ると、行き着くのが、パナソニック社内に設置された特別プロジェクト室となる。
1983年2月に、社長直轄組織として誕生した特別プロジェクト室の役割は、日本IBMのパソコンをOEM生産することであった。
第1号機となったのは、日本IBMが1983年3月に発表した「IBM マルチステーション5550(IBM 5550)」だ。初期段階では、松下通信工業の「マイブレーン」の開発部門が推進してきたプロジェクトであったが、量産に向けては、専門組織として特別プロジェクト室を設置して、日本IBMの開発、生産を支援することになったのだ。
当時のIBMのパソコン事業戦略は、世界向け製品と、日本向け製品では、OSやハードウェアが異なり、日本IBMの大和研究所の開発部隊は、日本向け製品を開発(IBM 5550は藤沢研究所で開発)しており、その際に、回路設計や基板設計、生産をパナソニックに委託する仕組みとしていたのだ。
特別プロジェクト室は、大阪府門真市の同社敷地の西国道門近くの棟に置かれており、本丸といえるパーソナルコンピュータ部の西門真地区の拠点とは離れた場所にあった。また、社内では、日本IBMのパソコンを委託生産していることは知られていても、実際にどんな技術を扱い、どんな検査を行い、どんな生産をしているのかは、まったく知られていないという特別な部門でもあったのだ。
生産したパソコンは、「IBM 5550」以外にも、「IBM 5530」や海外向けの「IBM PS/2 P70」、そして、「ThinkPadシリーズ」などにも及び、両社の関係は長年に渡って続いた。
しかし、1990年代に入ると、日本IBMは、パソコンの生産を中国に移管することを決定。これに伴い、特別プロジェクト室は、新たなビジネスを模索する必要に迫られたのだ。
このときに着目したのが、自社ブランドによるパソコン事業への進出であった。そして、サブノートという市場にフォーカスすることを決めたのだ。
この決定には、3つの理由がある。
ひとつは、サブノートという市場の可能性を強く感じていたことだ。
Windows 95の登場によって、国内のパソコン出荷台数は急増しており、パナソニックの推計によると、1995年度には前年比1.7倍となる570万台のパソコンが出荷された。そのうち、ノートパソコンは約3割となる165万台、サブノートは全体の約5%となる30万台となった。現在では、出荷台数の9割前後をノートパソコンが占めているが、当時は、出荷台数の7割をデスクトップパソコンが占めていた時代だ。しかも、ようやく1人1台という時代が訪れようとしていたタイミングである。2台目需要となるサブノートの市場が形成されるには時間がかかるとの見方が支配的だった。
だが、パナソニックでは、1996年度には、サブノートの出荷台数は、前年比倍増となる64万台になると予測。市場全体の構成比は9%に上昇し、その後も継続的に市場が拡大するとの見通しを立てたのである。まだ参入メーカーが少なく、成長が期待できるサブノートパソコン市場にフォーカスすることで、この分野におけるリーダーを目指す戦略を描いたともいえる。
当時の国内PC市場では、日本IBMが1994年6月に発売したサブノート「ThinkPad 230Cs」が注目を集めており、モバイル環境でパソコンを使いはじめるユーザーが少しずつ生まれていた。時代が変化する兆しが見えていたのは確かである。
2つめは、サブノートの実現に適した技術を有していた点だ。
それが、MCM(Multi Chip Module)である。パナソニックが持つセラミックの多層基板の製造技術と、ベアチップ実装技術によって実現したMCMは、3cm四方の基板に、CPUやチップ部品などを搭載することができ、小型軽量が求められるサブノートを実現するには優位性を発揮できる技術であった。
実際、レッツノートが製品化された際には、同社守口工場内にクリーンルームを設置し、Pentiumのベアチップを使用して、電極上に350本のバンプをつなぎ、CPUモジュールを完成させるという工程を用意して、基板を約3分の1にまで小型化。それが、サブノートには不可欠な筐体そのものを小型化することにもつながっている。
MCMは、もともとは、ワークステーション向けに、大量のメモリーを効率的に実装するために開発された技術だったという。メモリーをベア実装することで、高密度化を実現し、使用スペース化と高性能化を実現。IBMとは異なるOEM向けに活用していたという。
そして、3つめが組織という観点からの棲み分けだ。
当時、パソコン事業を行う組織として、特別プロジェクト室のほかに、情報機器事業部があった。第2特機開発部の流れを汲む組織であり、パーソナルコンピュータ部、コンピュータ事業部へと名称を変更しながら、1994年4月に情報機器事業部として、パソコン事業を継続していた。
ここでは、富士通のパソコンであるFMRシリーズの互換機や、ワークステーションのBeシリーズ、パナソニックブランドのIBM互換機などを開発。デスクトップパソコンやA4ノートパソコンの開発、生産、販売の実績を持っていた。だが、情報機器事業部でも状況の変化が起こりつつあった。、富士通が独自路線のFMRシリーズから、DOS/V仕様のFMVシリーズへの移行を図っており、互換機戦略の路線変更が避けられない状況にあったのだ。情報機器事業部が、自社ブランド展開した際には、デスクトップパソコンやノートパソコンといった製品領域でのDOS/Vパソコンの開発が前提となるため、特別プロジェクト室の自社ブランドパソコンで、その分野に進出すれば、社内競合になることは容易に想像できた。特別プロジェクト室ならではの特徴を出せる領域は、サブノートであることが、より明確化されたといってもいい。
軽量モバイルを追求、レッツノートの源流となった「PRONOTE jet mini」
1995年5月。パナソニックは、B5サイズのサブノートパソコン「PRONOTE jet mini」を発表した。これがレッツノートの前身となるサブノートパソコンだ。
実は、PRONOTEシリーズは、情報機器事業部が開発していたA4ノートパソコンの製品名であり、そのサブノートという位置づけて、特別プロジェクト室が「PRONOTE jet mini」のブランドを使用している。組織またいで製品名を共有するということは、当時のパナソニックとしては、異例の出来事だったといえる。
「PRONOTE jet mini」は、国内最軽量となる1.29kgを達成し、7.8型SDTNカラー液晶を搭載。リチウムイオンバッテリーの採用により、最大4時間のバッテリー駆動を実現した。そして、直径16mmのトラックボールを搭載して、高い操作性を実現したのも大きな特徴となった。価格は32万8000円。法人向けに販路を絞り込み、量販店などでの販売は行わなかったが、生産台数は年間2万台という意欲的な目標を掲げた。
特別プロジェクトチームで、「PRONOTE jet mini」の開発に携わったのは5人のメンバーだった。
その開発チームが、最もこだわったのが重量だった。開発目標に掲げたのは1.3kgである。
この数値は、サブノートで先行した「ThinkPad 230Cs」の1.7kgを下回り、世界最軽量を目指すという狙いもあったが、実は、別の要因から算出した目標値であった。
開発チームが調査したところ、持ち物の重さは、体重の5%程度に抑えると疲労が少ないという文献に辿りついたという。つまり、体重が60kgの人の場合は、3kgが疲れない範囲となる。ビジネスマンが持つ鞄に、資料を入れ(当時は紙の資料も多い)、ACアダプター、マウスなどを持つと、パソコン本体に残された重量は1.3kgから1.5kgと試算したのだ。ビジネスマンが1日持ち運んでも疲れない重量をベースに、引き算した結果が1.3kgだったというわけだ。
さらに、社員を対象に、重量が異なるモックアップを持ってもらい、重いと感じる基準はどこかという調査も実施した。そこでも、1.3kgを境に、「重い」と「軽い」の差を意識する人が多いことがわかった。
しかし、1.3kgを目指したものの、最初にできあがった試作機は、約1.7kgの重量になっていた。そこで、バッテリーには、国内PCメーカーとしてはいち早くリチウムイオン電池を採用。「3直1パラ」の構成にしたことで軽量化にも貢献。さらに、バッテリー収納部分のメタルカバーにも穴をあけて軽量化を図るなど、様々な工夫が凝らされた。
一方で、操作性の確保は譲らなかった。キーボードは17mmのキーピッチとし、3mmのキーストロークを実現。デスクトップパソコンと同じタイピングができるようにした。このサイズのキーボードを採用することを前提に、本体の横幅を決定。高さはバッテリーと基板をレイアウトした結果から決めている。
ちなみに、白いキーボードを採用したのは、PRONOTEシリーズで採用していたものを踏襲したためで、業務で利用するには、筐体を黒にし、キーボードを白にした方が、視認性が高いという判断によるものだ。これは初代レッツノートにも継承されている。
早すぎたコンセプト、積みあがる在庫、そしてレッツノートの挑戦がはじまった
特別プロジェクト室が持つ技術の粋を集めて開発した「PRONOTE jet mini」は、発表直後から大きな話題となった。パソコン専門誌は、こぞって「PRONOTE jet mini」を取り上げ、1.29kgという世界最軽量の先進性をアピール。また、1995年5月に、東京・晴海の東京国際見本市会場で開催されたビジネスショウ'95のパナソニックブースにも、発売前の「PRONOTE jet mini」を参考展示して、来場者の注目を集めた。


「PRONOTE jet mini」発売当時のパソコン専門雑誌の記事。やはり驚異的な軽さがフォーカスされている。パナソニックの「MCM(Multi Chip Module)」技術が小型軽量パソコンの実現に貢献していることへの言及も確認できる
だが、販路を法人ルートに限定したことが裏目に出た。アーリーアダプターと言われる層からは注目を集めたものの、量販店などでは扱っていないため、これらの層が購入できなかったこと、一方で、法人が導入するには、サブノートで32万8000円という価格がネックとなり、「PRONOTE jet mini」よりも画面が大きく、低価格のA4ノートを選択するという企業がほとんどだった。
当時は、インターネットは普及前夜であり、新幹線の座席にもコンセントがついていない時代の話だ。バッテリー駆動時間も短く、接続するには携帯電話によるアクセスなどが必要であり、モバイル用途といっても、いまの使い方とは大きく異なる。モバイル利用に対する関心が低かった時代でもある。
年間2万台という販売目標は高いハードルとなり、在庫が積みあがる結果となってしまったのだ。
パナソニックのモノづくり技術の高さを示すことができたものの、残念ながら、事業としては失敗と言わざるを得なかった。
だが、これで終わってしまっては、特別プロジェクト室の存在自体が無くなることになる。
「これで最後になるかもしれない。もし作りたいものがあったら作ってみろ。失敗したらやめることになる。その覚悟で取り組んでほしい」――。
事業責任者は、開発チームに対して、背水の陣で取り組むことを条件に、最後のチャンスを与えた。レッツノートの挑戦は、ここから始まるのである。
(続く)


















