今回のテーマは「ユビキタス」である。

これはおそらく新語というわけではなく、結構前から使われている言葉だ。しかし、かなり前から耳にしていたにも関わらず意味は全然知らないし、調べようとも思わなかったし、今まで調べる必要に迫られたこともない。

つまり、この「ユビキタス」なるものは私の人生に相当関係ない言葉であり、男性にとっての温水便座のビデボタンみたいなものだと予想される。あれを股ぐらに当てるのが唯一の楽しみだという男性がいるなら謹んでお詫び申し上げるが、とりあえず私向けに作られた言葉ではない、ということはわかる。

私がここでユビキタスについて調べて意味を知った所で前立腺マッサージの方法を熟知するようなもので、知ったところで使い所がないし、後者の方が他人にやる可能性があるというだけまだ有益なのである。

「概念」という便利ワード

そんなIT用語界の前立腺マッサージこと「ユビキタス」の意味を、時間をドブに捨てるつもりで調べてみた。

「さまざまなモノにコンピューターが内蔵され、いつ、どこにいても、ユーザーが求める情報が得られるような状態を表す概念」

以上がユビキタスの概要である。意味がわかったかどうかは別として、まさか「概念」と言う言葉が出てくるとは思わなかった。

私も「概念」という言葉は頻繁に利用する。どういう時に使うかと言うと「説明が面倒くさくなった時」だ。こういう、「何となく意味はわかるが正確にはよくわからない、ちょっと難しげな言葉」というのは相手を煙に巻きやすいのである。

例えるなら、ちょっと凝った色のフレームのメガネをかけた奴に「クライアントのコンプライアンスがハイリスクなパイオツ」とか言われたら、「よくわかんねえけど意識高いこと言っているな」と思ってしまうのと同じである。説明するための語彙が尽きた瞬間、己の中のブルースリーが「考えるな、感じろ!」と言わせるように、「これはいわゆる概念だよ」と言ってしまうのである。

なので、調べた先でこの概要を読んだ瞬間、「こいつ説明するのが面倒くさくなってねえか?」と思ったし、今まさに煙に巻かれようとしているのではと感じた。

真のユビキタス社会の実現とは

実際わかったようなわからないような説明だが、端的に言うと「どこでもインターネット」であり、ピンと来ないのはこの「ユビキタス」が現時点でほぼ実現しているからかもしれない。

このユビキタスが提唱されたのは1988年であり、まだ一般家庭にネットは普及していなかった。その時代からすると「どこでもインターネット」は理想のようなものであるが、現在、スマホやタブレットなどを使って、まさに「どこでもインターネット」ができる。

つまり、「ユビキタス社会」というものはすでに完成しているもののように思えるが、わざわざこのコラムのテーマに出てくるぐらいである。「まだこんなもんじゃねえっすよ」という話なのだろう。「この程度で『どこでもインターネット』など片腹痛い。もっとどこでも、これでもかと、君が泣くまでインターネットをやめない」のが、真のユビキタス社会なのだろう。

確かに、スマホやタブレットを家に忘れてしまったらインターネットはできない、そんな時、ネットカフェなど不特定多数の人間が使える公共インターネット施設もユビキタスの一つである。

だが、スマホやタブレットを忘れた上、あたりは見渡す限りの砂漠だし、ネカフェがあると思ったら蜃気楼だった、という状況ならお手上げだ。そういう時はネットより水を探した方が良い気もするが、このぐらいのことでネットにアクセスできないようではユビキタス社会とは言えないのだ。

「どこでもインターネット」の行き着く先

もっと当たり前に、息をするようにインターネットに繋がれなければならない。そうなると、空気中にネットを敷くしかない。SF映画のように、空(くう)をタッチすればネットの画面が現れるぐらいにするのだ。それをやったせいで酸素がなくなる等の弊害も出るかもしれないが、いつでもネットに繋がれることを考えると小さなデメリットでしかない。

だがさすがにこれは技術的に難しそうだし、実現するとして遠い未来のような気がする。よって、もっと単純にネット(現在の技術ならスマホが一番手軽だろう)を己の体に縫い付けてしまえばいいんじゃないかと思う。これなら忘れることは絶対ないし、「いつでもどこでもインターネット」だ。

今、ネットはすでに当たり前の物である。しかし当たり前になりすぎると、「それなしでは手も足も出なくなる」ということにもなる。オール電化住宅が停電で完全に機能停止するのと同様に、現在でもネットから切断されたら2駅先の飲み屋に行くにも道に迷う、というようなことは十分起こりうる。

だから、ネットが電気や水、空気レベルまで当たり前になると、我々はそれなしでは生きていけなくなるだろう。なので、体に縫い付けたネットシステムに自爆装置もつけておき、ネットが断絶された場合は爆発するようにしたらいいと思う。ネットのない不自由な世界で生きるぐらいならその方がいいだろう。

ネットと生きネットと死ぬ、それが真のユビキタス社会に違いない。


<作者プロフィール>
カレー沢薫
漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「やわらかい。課長起田総司」(2015年)、「ねこもくわない」(2016年)。コラム集「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年~)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。本連載を文庫化した「もっと負ける技術 カレー沢薫の日常と退廃」は、講談社文庫より2016年7月15日に発売予定。

「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年7月19日(火)掲載予定です。