日本IBMは9月8日、都内で年次イベント「Think Japan 2026」を開催した。イベントでは理化学研究所 理事長の五神真氏がAI for Scienceの進展や日本の強みについて語ったほか、日本IBM 代表取締役社長執行役員の村田将輝氏がAI時代の企業経営やエンタープライズAIの方向性について説明した。

はじめに登壇したのは、2026年8月1日付でに新社長に就任した村田氏だ。同氏は「IBMは“保守的”ではあるが、それは企業・個人レベルで信頼と責任を果たす姿勢を意味し、重要ミッションを支えるシステムの安定性・安全性の継続に熱意を持つカルチャーがあるからだ。社長交代の際に、こうした文化を基盤にAI・量子時代に選ばれる企業となるための方針を熟考した」と話す。

  • 日本IBM 代表取締役社長執行役員の村田将輝氏

    日本IBM 代表取締役社長執行役員の村田将輝氏

村田氏は30年周期の構造変化を引き合いに出し、1965年にメインフレームによる集中型計算資源の時代、1995年にインターネットとクラウドにより分散型に移行し、組織の意思決定も分散、民主化の道を辿ってきたと振り返る。そして、2025年を前後してAI・量子時代を迎え、集中・分散の再編が進むとしている。

  • 村田氏はAI・量子時代を「再編」の時代と位置付ける

    村田氏はAI・量子時代を「再編」の時代と位置付ける

AIが変える知の創造、サイエンスとコンピューティングの融合

このようなAI・量子時代がもたらす変化について、理研の五神氏と日本IBM 取締役副社長執行役員 最高技術責任者の森本典繁氏の対談に移った。まず、森本氏は昨今において社会と科学技術が転換点を迎え、変化の本質をどのように考えているかを五神氏に尋ねた。

五神氏は「人類史的な変化であり、人間は知を生み出してきたが、その知を生み出す基本的なやり方そのものが大転換し、サイエンスとコンピューティングは本質的に重なる概念だ」との認識を示す。

  • 理化学研究所 理事長の五神真氏

    理化学研究所 理事長の五神真氏

同氏によると、コンピュータの語源にはラテン語の「computare(コンプターレ)」があり、複雑な事象から本質を抽出し、共有可能な知へと昇華させる意味を持つ。サイエンスも同様に、個人の好奇心を出発点としながらも、その成果を社会全体で共有できる普遍的な知へと高めていくものだという。

そこにはオープンサイエンスの考え方があり、これまでサイエンスの発展を支えてきたのがコンピューティングだったが、現在はAIの進化でサイエンスとコンピューティングの関係も新たな段階へと入りつつある。

特に、五神氏が注目するのがエージェント型AIの進展だ。同氏は「科学的な知を生み出す主体そのものが変わってきている。AIが単なる研究者の道具から、発見を支援し、主体的に担う存在へと進化している」と説く。

また、同氏はAIの進化の方向性について、従来は人類が蓄積してきた言語データを中心に学習して発展してきたが、今後は自然界や実験環境から生み出される「非言語データ」が主役になるとの見立てだ。

AI for Scienceの中核を担う「非言語データ」

理研が運用する大型放射光施設「SPring-8」では、1日あたり数十PB(ペタバイト)規模のデータが生成される。科学データは言語データとは異なり、理論上ほぼ無限に増え続ける。そのような超大規模かつ非言語のデータをAIと組み合わせることで、AIそのものがさらに進化するという。

こうした考え方の中核にあるものが「AI for Science」だ。AIを研究の効率化に活用するだけでなく、科学的発見を加速する基盤として位置付ける考え方だ。理研でも計算基盤と最先端科学を融合し、新たな知の創造につなげる研究を進めている。

そのうえで、五神氏は「AIが得意なことはAIに任せるべき。AIが担える仕事を人間が続けていては競争力を維持できない。重要なのは、人間にしかできない問いを立てることにある」と述べている。

AI技術の進化は科学研究だけでなく企業経営にも大きな影響を及ぼしている。森本氏は、技術の進歩があまりにも速い中で、経営者はどのように意思決定すべきなのかを問いかけた。これに対し五神氏は、最前線で何が起きているのかをリアルタイムで把握し、判断を誤らないことが重要だと強調した。

  • 日本IBM 取締役副社長執行役員 最高技術責任者の森本典繁氏

    日本IBM 取締役副社長執行役員 最高技術責任者の森本典繁氏

AI分野では新たな技術やキーワードが次々と登場しているが、重要なのは流行に振り回されることではなく、本質的な変化を理解することだという。そのため理研では、産業界ともAIの最前線に関する知見を共有するとともに、最先端AIを活用するために必要な計算資源も共有できるシステムを構築している。

Genesis MissionとAI主権 - 日本に求められる役割

対談では、米国が主導する大規模プロジェクト「Genesis Mission」についても語られた。Genesis Missionは、HPC(High Performance Computing:高性能計算)、AI、量子コンピューティングを融合し、研究生産性を飛躍的に高めることを目指す取り組み。その中核に位置付けられているのがAI for Scienceとなる。

構想の背景には、科学データと言語データを統合することでAIがさらに高度化するという考え方があるほか、オープンサイエンスだけではなく、オープンデータとクローズドデータをどう組み合わせるかも重要なテーマになっている。産業利用を視野に、オンプレミス環境でも活用可能なオープンウェイトモデルの開発も進められており、NVIDIAやOpenAIをはじめとする主要テクノロジー企業が官民連携の形で参加。

  • 米国主導の「Genesis Mission」。AI、HPC、量子技術を融合し、科学研究の加速を目指す

    米国主導の「Genesis Mission」。AI、HPC、量子技術を融合し、科学研究の加速を目指す

森本氏は、IBMやMicrosoft、AMDなど多くの企業が参画している点に触れつつ「もはや一企業や一分野だけで完結する取り組みではなく、計算資源、研究資源、人材を統合し、国家レベルで知の創造基盤を構築する挑戦になっている」と明かした。

五神氏は、この取り組みにおいて日本が初の国際パートナーに指名された意義についても言及した。同氏は「日本の強みは、ものづくりや材料開発の現場で蓄積される膨大な非言語データにある。現在、生成AIの競争では米国勢が先行しているが、実世界で得られる産業データや科学データの領域では、日本にも十分な優位性が残されている」と日本のアドバンテージを示唆した。

特に製造現場で培われた知見や、実験装置から得られる高品質なデータは、日本が世界に対して提供できる重要な価値だ。五神氏は「日米連携を通じて大規模計算資源やオープンウェイトモデルの開発に参画することは、日本のAI主権(AI Sovereignty)を守るという意味でも重要になり、歴史的なチャンスだ。日本が持つ科学基盤や産業基盤への期待が米国側にもある」との認識だ。

AIと人間の共創を支える「Joy of Discovery」

対談の終盤では、人間とAIの関係について議論が及んだ。五神氏によると、数学や理論物理学の分野では、長年解決できなかった問題をAIが解いてしまう事例が現れ始めているという。だからこそ問われるのが「人間は何をするのか」という根源的なテーマだ。

五神氏は「AIと人間が対立するのではなく、協調しながら新たな知を生み出していく関係を築くべきだと語る。科学者が研究に没頭する理由は、お金や名声ではなく『Joy of Discovery(発見の喜び)』にある。その喜びこそがAIを使いこなし、さらに進化させる原動力になる」と強調した。

一方で、AIの普及に伴う電力消費の増大といった課題も無視できない。情報科学だけでなく物理学も含めてAIの原理そのものを見直し、ハードウェアとソフトウェアの両面から再設計していく必要がある。その中で量子コンピューティングが果たす役割への期待も大きい。五神氏は最後に「AI for Scienceを通じて人類規模の課題解決に貢献し、社会との間に知への信頼を築くことが重要だ」と力を込めていた。

村田社長が語るAI時代の企業経営と成長戦略

対談後に再び登壇した村田氏は、日本経済を「失われた30年」という悲観的な見方だけで捉えるべきではなく、日本には企業をはじめ十分な資産ストックが蓄積されており、AIを活用した生産性向上と成長投資を実現する好機にあるとの認識を示した。

  • 村田氏

    村田氏

同氏によると、企業におけるAIの活用について階層構造が変化しつつあるという。これまでのエンタープライズAIは、業務アプリケーションが存在する「アプリケーション層」、生成AIなどの「モデル層」、GPUやデータセンターといった「インフラ層」の3層で語られることが一般的だった。

しかし、AIの利用が個人から企業全体へと広がる中で、新たな視点が必要になっているとのことだ。そのため、今後の企業AIでは「知識層」と、その上位でシステム全体を制御する「制御層」が加わり、5階層になるとの見解を示した。

  • 日本IBMが示すエンタープライズAIの5階層モデル

    日本IBMが示すエンタープライズAIの5階層モデル

村田氏は「データ、ナレッジ、業務コンテキストなどの企業固有の知識と既存システムを結び付けることで、初めてAIが実際の事業価値を生み出す」と話す。

さらに、近年注目されるAI主権についても話は及んだ。同氏は「AI主権はすべての技術スタックを自前で保有することではなく、業務特性やシステム要件に応じて、どの階層の主権を自社で保持するのかを設計することが本質だ」と述べている。

村田氏は「企業がAI時代の競争力を確立するためには、オープンでリアルタイムかつ安全な中間層を構築し、企業固有の知識を活用できる環境づくりが重要になる」との考えを示した。

そして、最後に同氏は「メインフレームからインターネット時代の変化では、計算資源が集中型から分散型で、また組織の意思決定も本社集中から分散、民主化してきたという経緯がある。AI・量子時代には、集中、分散からさらに再編が行われる。AI時代の競争力は業務の仕組み、システム、データ、セキュリティに対する知見などの企業知識を資産化して、AIが最大限に活用できるように再構築していくことがポイント。新しいオペレーティングモデルで運用を開始し、学習を続けていくことが必須の要件となる」と述べ、プレゼンテーションを結んだ。