
「映画はわたしの人生の友です」─。総合エンターテインメント企業のぴあ社長の矢内廣氏はこう語る。1972年に学生ベンチャーの走りとして創業した矢内氏は、映画・演劇・音楽・美術の興行情報誌『ぴあ』発刊の他、若手の映画人発掘にも注力しコンペを企画するなど文化復興にも力を入れてきた。コロナ禍で売上8割減の大打撃を受けた同社だが、25年には過去最高益と復活。創業から54年間、矢内氏を支えてきたものとは。
ハイブリッド型メディア 『とぶ!ぴあ』が復刊
─ 1972年に月刊誌として発刊が始まった『ぴあ』は2011年に休刊していましたが、今年4月に紙の雑誌『とぶ!ぴあ』を15年ぶりに復刊しましたね。まずこの思いから聞かせてくれませんか。
矢内 復刊の意図は、紙のアナログとネットのデジタルを橋渡ししている新しいメディアを始めたという位置づけです。 『とぶ!ぴあ』の「とぶ」というのは、雑誌の中にたくさんQRコードがあるのですが、これをスマホで読み込むとそのオンライン情報に直接飛ぶ仕組みになっているんです。
─ それで『とぶ!ぴあ』という名前にしたと。
矢内 ええ。例えば映画館の上映情報は新しいものがどんどん出てきて次から次へ変わりますよね。現時点での最新の上映時間を見たいときに紙の雑誌だと対応しきれないのです。ネットであればすぐに情報更新が可能です。
ですから今現在の正しい情報が見られて、動画の予告編が観られる、あるいはコンサートのチケットなど何でも即時予約ができる点はネットの利点です。そういった紙だけではできない情報の場所にすぐさま飛んでいけます。それで『とぶ!ぴあ』という名前にしました。
─ 紙とデジタルを繋ぐ役割をしている雑誌だと。雑誌の良さは何ですか。
矢内 指でめくる楽しさもありますし、何より情報の一覧性という面では紙の方がわかりやすいです。
今の若い人たちは調べ物を何でもGoogleで検索していますよね。自分が知りたい映画のタイトルが分かっている人はそのワードを入れて検索するとすぐその情報が出てきます。
しかし、今週の土日に何か面白いものはないかなと探そうとするときに、Googleは使えないのです。
一覧性がある雑誌『ぴあ』は元々そういうことができる雑誌でした。読者はペラペラとページをめくりながら、あ、こんなものもある、こんなものもあるといった偶然の出会いや発見をしていました。
ですから今回それを紙で復活させて、加えて先ほど言ったような飛ぶことによって最新の情報やチケット予約ができたりするハイブリッド型の新しいメディアにしたのです。
─ そういう一覧性ある雑誌の方を求めている人もいますよね。
矢内 そうですね。『ぴあ』という雑誌を知っている世代は60代、70代がボリュームゾーンです。この層の方々が懐かしさも含めて結構買ってくれていますね。
─ 若い人にはどう浸透させていきますか。
矢内 若い人たちには一覧性を持って、面白そうなものを見つけてそれで飛んでいく利便性を訴えていきたいです。新聞でもオンラインではなく、紙だと見出しや位置などで情報の重要性や価値観が分かりますよね。対して、オンラインは情報が全て並列になっています。
─ それからチケット販売だけではなく、イベント会場やアリーナを作ったりしていますね。総合エンターテインメント企業を目指すという理由は?
矢内 チケット販売はもちろんビジネスのメインですが、われわれは感動のライフライン事業という言い方をしています。
チケットのシステム、雑誌などのメディア、会場、コミュニティを持っています。つまりエンターテインメント事業会社で必要なパーツは全て揃っているということになります。社内で作り手から受け手まで一気通貫に結ぶ仕組みがあります。
売上8割減のコロナ禍
─ 創業から50年の歩みの中でいろいろ社会の変遷があると思いますが、印象深いのはどの時期ですか。
矢内 東日本大震災も当社の業績に影響がありましたが、一番影響が大きかったのはやはりコロナ禍の時ですね。 あの時はエンターテインメント業界全体がコンサートも開けない、芝居も打てないという窮地に追い込まれました。
ですから売り上げは80%減で、もうほとんど潰れるんじゃないかという状態です。当社では社員のリストラはやりませんでしたが、財務的には非常に大変な時期でした。
─ その時はどう持ち堪えたんですか。
矢内 長期資金の確保をまず最初にやりました。雇用は守りましたが、役員報酬をまずカットし、社員の賞与、報酬カットもやむを得ずやりました。報酬カットを行うことについては全社員一人一人全員から同意書にサインしてもらいました。
─ このことがまた社内の団結を生みましたかね。
矢内 ええ、そうですね。当時の社員は約350人でした。これは1人でもサインしない人がいるとできません。丁寧に説明をして、今はみんなで我慢する時だと。
経営会議では報酬カットは最後の砦だという意見も出たのですが、わたしはそう思わないと訴えました。最後の砦は報酬カットではなくリストラです。リストラをしないためにもここは報酬カットをして、今はみんなで我慢して、次の準備をするんだという話をしました。
結果そちらに踏み切ったのですが、社員たちはわたしの訴えに対して誰一人反対する者はいなく、全員がサインしてくれたんですね。
─ 全員から承諾をとるのは骨が折れることですね。
矢内 ええ。これまで社員との対話は重ねてはきましたが、こういう大変なときにみんなの気持ちが1つになって一体感を持つのだということを感じました。社員全員に、今は我慢して、ぴあという会社を守らなくてはという気持ちが生まれたということですね。
それは、今後の戦略をどうするとか立派なプランをいくら出してもだめで、やはり組織で最後に要となるのは社員の気持ちだと強く思いましたね。
─ 社員の心と心が繋がらないと危機には対応できないと。
矢内 はい。ですからそういう意味ではコロナ禍は大変な時期でしたが、結果的に社員たちの気持ちが一つになるいい機会になったと思います。
売上がコロナ禍前の2割しかないわけですから、ぴあ史上最悪の状況です。過去最大の赤字を出しましたが、25年期はぴあ史上最高の利益を出しました。配当も5年間無配でしたが、それも結構いい数字で復配することもできまして、コロナ禍の完全脱却はできたと思います。
その元にはやはり先ほどの社員の気持ちがあったからです。良い戦略だけでは到底乗り切れる状況ではなかったと思います。
経済性と趣旨性の両輪経営
─ 創業してから54年間、矢内さんを支えたものは何ですか。
矢内 振り返って考えてみると、ぴあという会社は、経済性と趣旨性の2つを車の両輪にして進む会社だと思っています。趣旨というのは物事の考え方という意味です。これは企業理念にも置いていて、2年前に株主総会で定款にまで織り込んだんです。
当然資本主義社会ですから、世の中全般的には利益を1円でも出すのが一番大事なことだというふうになっています。もちろん利益は大事なのですが、もう一方で趣旨性も大事だということを当社は掲げています。
その考え方で会社を作ってきたので、これをちゃんと守り抜いて、作り上げて、次にバトンタッチしたいという思いですね。
─ 創業の時から社会性を強く意識していたんですか。
矢内 いえ、最初はそんなことまで考えていません。学生ベンチャー企業で全然そんな余裕はありませんでした。
でもある時期からそういうことを考え始めたんでしょうね。「でしょうね」って他人事のように言っていますけど(笑)。
─ よくわかります。
矢内 例えば『ぴあフィルムフェスティバル』という自主映画の映画祭がありましてね。昔から映画製作を志す若い若者たちがたくさんいます。それで、わたしが映画好きだということもあって、そういう人たちのコンペティションを始めたんです。
映画監督の新しい才能を発見して育成していくことを掲げて1977年からやり始めました。最近でいえば、大ヒットした『国宝』の監督(李(イ)相日(サンイル))もそのコンペで入選した一人です。
今から考えれば、まだ創業5年目のよちよち歩きだったぴあでそういうことも必要だと考えてやってきたんだなと。
─ これは結構経費もかかるイベントですかね。
矢内 最初はなるべくお金がかからないようにやってきました。今は一般社団法人にしてそれなりのレベルでやっています。
そういったことをやってきながら、のちに企業理念として経済性と趣旨性の2つを車の両輪として前に進むことを定款にまで入れて一貫してきたと。この2つをきちんとやりたいと思って経営してきたのが、わたしの原動力かもしれません。
─ 『ぴあフィルムフェスティバル』も含め、映画というものは矢内さんの経営者人生に大きく関わってきましたね。
矢内 はい。わたしは子供の頃から映画好きでしたからね。当時楽しみというものは映画しかなかったんですよ。ですから大学も映画研究会に入ったりして、映画好きがずっと高じて、雑誌『ぴあ』につながっていたという経緯があります。
─ 映画人で特に思い出に残る経営者や監督はどういう人がいますか。
矢内 それはもうたくさんいます。映画監督の大島渚(1932―2013)さんとも随分お付き合いもあったし、応援もしてもらいました。それから篠田正浩さんにも随分お世話になりました。
財界人でいうと、1980年代にインターネットが出てきてオンライン上のチケット購入システムのチケットぴあを開発したいと考えていたときに、当時の財界の重鎮の方々にぴあの相談役になっていただいたことがあるんです。
そのときお世話になったのは、元通産次官の佐橋滋さんです。佐橋さんが、三井不動産会長の江戸英雄さんと、日本精工会長の今里広記さん、サントリー社長の佐治敬三さんを紹介してくれたのです。この3人と佐橋さんに相談役になっていただいた時代がありました。
─ 大御所ばかりですね。
矢内 ええ。佐橋さんのおかげです。当時佐橋さんは余暇開発センターの理事長を務めておられました。その余暇開発センターの従業員がぴあに営業に来まして、話してるうちになかなかいい若者だと思いその彼をぴあに来ないかと誘ったのです。
それで佐橋理事長の了解をいただこうと、彼とともに直接ご挨拶に伺いました。
その時に佐橋さんと初めてお会いして事のいきさつをお話したら、いい話じゃないかと。人生で人に誘われることもそう多くないから、君はぴあに行って頑張りなさいと彼をその場で励ましてくれたんです。その後、佐橋さんとも交流が始まりました。
─ 佐橋さんは産業振興に大胆な手を打つ官僚として活躍し、同時に心の広い人として知られていましたからね。
矢内 はい。それで、そのチケットシステムが出来上がったときに、業界向けのデモンストレーションをするという段階で、佐橋理事長にもぜひご覧いただきたいとご案内をさせていただいたんです。
佐橋さんはデモンストレーションを見て、「ああそうか世の中もこんなふうに変わるんだな」と感心しておられたことを覚えています。その時に佐橋さんが、「矢内君、これは君の応援団が必要だな」と言われたのです。まだ若かったわたしは瞬時にはその意味を理解することができませんでした。(以下次号)