
母はキャッチボール相手
わたしは福島県福島市で生まれました。3人姉弟の真ん中で姉と弟がいます。
父・善男は県庁の職員で、真面目そのもの。何をするにも、きちんと計画を立てて、ああしなさい、こうしなさいと。カステラを食べるのも、1センチずつ切って、5人家族だから、きちんと5等分するような性格でした(笑)。
母・みゆきはソフトボールの元国体選手で、非常に明るく、行動的。わたしの性格は母から受け継いだものでしょう。わたしは子供の頃、プロ野球選手になりたいと思っていて、母がキャッチボール相手になってくれました。
今のわたししか知らない人には信じられないかもしれませんが、うちは教育熱心な家庭で、わたしは福島大学附属小学校、福島大学附属中学校と、国立大学の附属校に通いました。
ただ、わたしは体育は得意だけど、勉強が大の苦手。小学校の通信表はA・B・Cで、Aが一番上。Bは普通で、Cが一番下ですが、わたしは小学校の6年間、体育はいつもAでしたが、それ以外はずっとCでした。
両親は、最初こそ「勉強しろ」と言っていましたが、どうせ重廣は勉強しないということで、「きちんと友達がいて、好きな運動をしていればそれでいい」と言ってくれました。
ただ、一度だけ、母から叱られたことがありました。6年生の1学期だけ、得意の体育がCだったのです。母がいつもはAなのにどうしたの? と聞いてくるので、わたしは初め「知らないよ」ととぼけていました。
ところが、母がしつこく聞いてくるので、仕方なく説明しました。サッカーの授業中に、自分たちのチームが下手で全然点が取れないので、面白くないから、わたしが自分のチームのゴールにボールを蹴りこんだのです。
つまり、自作自演のオウンゴールですが、それを先生から注意されました。この時、わたしは「ゴールが入らないから、自分のゴールに入れて何が悪い。チームメイトが下手だからダメなんだ」と言いました。
Cになった理由は、間違いなくそれが原因でしょう。そのことを母に言うと、「他人の文句を言うな。周りのみんなの迷惑になるようなことは絶対にするな」と叱られたのです。
中学に上がると、男子生徒80人中、79番か80番が定位置でした。中学の通信表は10段階評価になりました。10が最も上ですが、わたしはほとんどが1か2です。わたしはずっと「何でも一番だからいいじゃないか」などと開き直っていましたが(笑)、2年生の時に父兄参観がありました。
わたしは国語が苦手で、漢字が読めません。先生にさされたので、わたしが適当に答えたら、周りのご父兄さんが「あの子はふざけているの?」、「一体何なの?」と、あきれた感じでヒソヒソ言うのです。この時、わたしの両親は非常にバツの悪い表情をしていて、わたしは親に恥をかかせてしまったと反省しました。
親に申し訳ない。そう考えて、その日の晩、わたしは初めて両親に勉強するから家庭教師を雇ってほしいとお願いしました。
学校は福島大学の附属ですから、教育学部の大学生がやって来て、勉強を教えてもらいました。すぐに成績が上がり、初めて60何番になり、学校の先生からも褒められました。
わたしは体育以外で学校の先生に褒められたことは一度もありませんでしたから、これが嬉しくて勉強し、40番台まで上がりました。
どうしても国語は苦手だったのですが、わたしは数学が好きで、難問を解いていくことが面白く感じ、数学だけは10番台に入るくらいまで成績が上がりました。この時の両親の喜んでくれた顔は今になっても忘れられません。