「眼科」と「リウマチ」に特化したスペシャリティーファーマの参天製薬。売上高の80%以上を占める医療用眼科薬では、国内市場でトップシェア。薬局・薬店で買える一般用眼科薬市場でも2位のシェアを確立している。

今回は、その参天製薬において情報システム部長、業務・情報グループ長、業務改革推進本部長を歴任し、現在も業務本部長として、経営にとってのシステムの在り方について見つめ続けている川畑裕一氏に、同社の情報システムの位置づけや、そのなかでの人材についての考え方を聞いた。

川畑 裕一(Hirokazu Kawahata)
参天製薬 業務本部長 / SAPジャパン・ユーザー・グループ常任理事


1978年参天製薬に入社。入社後、MRとして営業を担当する傍ら、専門学校で学び始めて以来社内の情報システム化に携わる。

1999年より情報システム企画室長、情報システム部長、業務・情報グループ長、業務改革推進本部長を歴任し、2005年より現職。

SAPジャパン・ユーザー・グループ(JSUG)発足以前より、医薬品産業の有志で結成されたSAP研究会に参加。JSUG発足(1996年)から医薬品部会に参加し、医薬品部会長(2000~2008年)も務める。2009年よりJSUG常任理事。

生産計画系の課題を解決するためにSAPを導入


――もともとは製薬会社の営業担当であるMR(医薬情報担当者)の仕事をしていて、情報システム部門に移られたそうですね。

川畑氏: 私は1978年にMRとして入社しました。システムを担当したのは4年後の1982年からです。当時は情報システム部門といっても、まだ小さな組織で電算課と呼ばれていて、手作りで、必要なものから順次IT化しようということで取り組んでいました。

私はMRの出身で、システムについては何の知識もありませんでしたから、仕事を終えてから専門学校へ通ったり、当時はIBM社のホストを使っていた関係でIBM社の研修に参加したりして、プログラミングを覚えました。

営業から移ったということで、当初は販売系のシステムを担当していました。まだ、SFAやCRMといった言葉もない時代です。その後、生産計画を、当時流行っていたAI(人工知能)を使って行うことを考えたり、会計システムに取り組んだりと、自分の守備範囲が徐々に広がっていきました。

当時、ホストはIBM社のAS400を使っていましたが、CASEツールを使い、財務会計システムの全面的な刷新をしたのが1994年です。

――RPGですね。1994年当時、CASEツールを使い自動化し、システム開発作業の効率化を進められているというのは、かなり先進的ですね。

川畑氏: 財務会計の構築が終わってすぐに出てきたのが、生産管理のシステム化の課題です。現在の代表取締役会長の森田が社長の時代に、「最近海外では統合業務パッケージが存在するので調査・検討するように」と指示がありました。スタートはまさに、トップダウンです。

まだERPという言葉のなかった時ですから、そこから生産部門長と一緒に調査が始まりました。調べてみると、国内ではSAPのほかに2社ありました。SAPには製薬会社の事例があることがわかりましたが、ほかの2社には国内の事例がありませんでした。そうしたこともあり、1995年にはSAPに絞られていきました。

システム導入は日本総合研究所さん(現在のJSOL)にお願いすることになったのですが、当社にとっても、日本総研さんにとってもSAPR R/3R(現在はSAPR ERPとして提供)の導入は初めてで、お互いに必死でした。インプリメンテーションが始まり、2年掛かりの1997年4月に無事カットオーバーすることができました。

その後、バージョンアップを3回行い、その都度機能拡張し、最近はSAP ERP 6.0へのバージョンアップと同時にWindowsサーバーへマイグレーションしました。導入後12年以上経ちますが大きな問題もなく、安定的に稼働しています。

情報システム担当者はシステム企画で実力を着ける


――実際のSAP導入プロジェクトにおいて、システム構築に携わる「人」の重要性をどのようにお考えでしょうか。

川畑氏: SAP R/3は、会計、生産、販売、品質管理など、ビッグバン型で導入しました。BPRしながら、基幹業務系をSAP R/3の中に整流化させていきました。また、当社では、プロジェクト当初から社内で開発・運用せず、アウトソーシングの活用を考えていたので、インプリメンテーションした日本総研さんによる運用へ、スムーズな移行ができました。

アウトソーシングで行っているため、運用という部分では人を育成する必要はありませんでした。情報システム部門の担当者は、ユーザーと会話し、業務要件を的確に把握し、システム要件に変換する役割を持つ。それが当社のスタンダードになったのです。

それまでは私が行ってきたようにプログラミングから運用までのすべてを情報システム担当者が行っていたのですが、SAP R/3の導入をきっかけに情報システム部の在り方も変えたかった。主な役割を「システム企画」とし、社内ユーザーと対等に会話ができ、業務が理解でき、業務改革・改善の提案ができるような実力を持って、システムにつないでいく。そして、インプリメンテーションや運用は、アウトソーシングをフル活用していく。そのような構想が固まったのが、1997年SAP R/3の導入が完了したころです。

ビッグバン型でBPRしながらSAP R/3を導入し、大きな改革、整流化はできましたが、本当の意味での整流化は毛細血管に至るまで、つまりオペレーション的な業務の細部まで改善が必要となります。業務改善は山のように存在し、継続させることが大事です。そこで2002年に本社部門を再編成し、業務・情報グループが設立されました。この組織は本社スタッフ部門のオペレーション的な業務を担う部署です。私は2000年から情報システム部門を任されていたのですが、システム化のBPRからオペレーション的な業務の改善までを一気通貫したこの組織を担当することになりました。

そのころ、会社ではグローバル展開を目指していましたが、業績が芳しくなく、業績回復のためにはコスト削減を目的とした業務改革の推進が課題となっていました。そこで、業務・情報グループ長と兼務して、業務改革推進本部長に就任しました。

社内のさまざまな業務改革を企画・提案の上、承認された案件から順次実施していきました。もちろん、システム化すべきものはシステム化していきました。また、業務改革では、オペレーション業務を切り出し、その業務を業務・情報グループに集約する。このようなことを繰り返し、徹底した集約を行なった上で効率化し、コスト削減を実現しました。このような大きな改革が終わった2005年に業務改革推進本部と業務・情報グループを1つにして、今の業務本部ができました。