カナダ・トロントを拠点とするSpellbookのCEO兼共同創業者、スコット・スティーブンソン氏が社内向けに送った「AI執筆ポリシー(AI writing memo)」が注目を集めています。彼は企画書や提案書について、AIを使って整えられたものではなく「D+バージョンを出してほしい」と社員に求めました。

「D+」、つまり「F(落第)」ではないものの、及第点ギリギリの粗削りな状態ということです。それでもスティーブンソン氏は、AIによって見栄えよく仕上げられただけの「Aに見える企画書」より価値があると考えています。「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第73回

    2026年3月、スティーブンソン氏はターナー・ノヴァク氏(Banana Capital)の人気ポッドキャスト「The Peel with Turner Novak」に出演。当時はまだ「D+バージョン」という言葉こそ使っていなかったものの、AIで不自然に洗練された企画書・提案書に対する懐疑的な姿勢を明確に語っていました

AI活用による完成度が高いものより「粗削りなD+」の発想

一見すると、AIに否定的な経営者による極端な注文のようにも聞こえますが、スティーブンソン氏はAIに疎い経営者ではありません。Spellbookは生成AIで契約書の作成やレビューを支援するリーガルAI企業であり、次のユニコーン候補の1社にも数えられる有望なAIスタートアップです。

では、AI企業の経営者がなぜ、社員によるAI活用に注意を促しているのでしょうか。

「D+バージョンを出してほしい」というのは「褒められた出来ではない企画書でも歓迎する」という言葉通りの意味ではありません。スティーブンソン氏が問題視しているのは、まだ十分に考え抜かれていないアイデアをAIに渡し、いかにもプロフェッショナルに見える企画書や提案書へ仕立てて、そのまま提出する使い方です。

AIを使えば、わずかな指示から数ページの整った文書を簡単に作れます。見出しが付き、論点が整理され、もっともらしい説明が並びます。ですが、文書の完成度と、そこで示されている考えの完成度は同じではありません。

文章だけを見れば「A」でも、提案者本人の問題意識や判断、つまり考えの核がほとんど含まれていないことがあります。しかもAIは、練り切れていないアイデアをもっともらしく語ったり、些細な内容を長い文章に膨らませたりするのが得意です。

受け取った側は、数ページを読み通したうえで「結局、何が言いたいのか」を自分で組み立て直すことになります。そして多くの場合、最後には本人に直接聞くことになるのです。それなら、数行の箇条書きであっても、本当に伝えたいことをした「粗削りなD+」の段階で見せてもらった方が、はるかに議論しやすいというわけです。

「meat proxy」と呼ばれる社員たち

こうした問題意識を持っているのはSpellbookだけではありません。

Business Insiderによると、旅行アプリを手がけるPolarsteps、人事SaaSのLeapsome、営業・マーケティング向けプラットフォームのClayなどでも、AIを使った社内文章に関するルールが作られています。

Clayでは、AIの出力をほとんど確認せずにそのまま他人へ転送する社員を指して「meat proxy」という表現まで使われているそうです。自分で内容を咀嚼も判断もせず、ただ送信ボタンを押してAIの生成物を「自分からの文書」に変換しているだけ、という皮肉が込められています。

これらの企業はいずれも、AIの利用そのものを禁止してはいません。アイデア出しやリサーチ、文章の修正や校正などにAIを利用することは認めています。そのうえで、ルールで求めているのは、AIを使ったとしても「最終的に送る内容については人間がすべての責任を持つ」ということです。

受け手の時間を奪う「Workslop」の経済的損失

では、中身の薄いAI生成文書が増えることの何がそれほど問題なのでしょうか。最大の問題は、作った本人ではなく、それを受け取った人の時間を奪うことです。

スティーブンソン氏の例で言えば、十分に考えられていないアイデアをAIで数ページの企画書に仕立てるのは簡単です。しかし、それがCEOのデスクに届けば、スティーブンソン氏は時間を使って読まなければなりません。

これはCEOだけの問題ではありません。同じように中身の薄いメールや報告書、企画書、プレゼン資料が社内を行き交えば、同僚や上司の時間が費やされます。社外へ送れば、今度は顧客や取引先の時間を使うことになります。

こうした現象には、すでに「Workslop」という名前が付いています。生成AIを使い、手間をかけずに大量生産された低品質な文章や画像、動画は「AI slop(AIスロップ)」と呼ばれます。その職場版がWorkslopです。

ただし、単に「AIが書いた中身のない文章」を指す言葉ではありません。一見すると完成した仕事に見えるものの、実際には仕事を前へ進めるための中身が足りず、受け取った人に追加の作業を発生させるAI生成物を指します。

たとえば、本来なら数行で済む内容が1ページに膨らんでいたり、もっともらしい選択肢を並べるだけで結論が示されていなかったり。情報量は多いのに、判断材料としては薄い文章です。受け取った側は長い文書を読み、重要な部分を探し出し、情報を整理し直し、場合によっては送り手が本来行うべきだった判断まで代わりに行うことになります。

その負担は、数字にも表れています。BetterUp LabsとStanford Social Media Labが2025年9月に米国のフルタイムのデスクワーカー1150人を対象に調査を実施しました。

それによると、40%が直近1カ月にWorkslopを受け取ったと回答。1件への対応には平均で約2時間かかり、従業員1人当たりでは月186ドル相当のコストになると試算しています。従業員1万人規模の企業なら、年間約900万ドルの生産性損失に相当します。

作成者の効率化が「読む側のボトルネック」を生む

生成AIを活用することで思考や作業のコストを節約できます。しかし、Workslopでは送り手が節約したコストが受け手に転嫁され、結果的に節約効果が失われる可能性があります。

たとえば従来、1000字の企画書を書くのに1時間かかり、それを読むのに5分かかったとします。生成AIを使えば、作成時間を大幅に短縮できます。しかし、受け取る側が内容を理解し、妥当性を評価する時間はほとんど変わりません。10ページの企画書を30秒で生成できるようになっても、人間は30秒で評価できるようにはなりません。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第73回

    生成AIで作成コストが大幅に下がる一方、「読む・評価」にかかる労力は変わらず、大量生成される書類に受け取る側の負担が増加

アウトプットの量が増えることと、組織全体の仕事がそれだけ速く進むことは同じではありません。短時間に大量の文書を作れるようになっても、読む側の処理能力が変わらなければ、今度は読む側がボトルネックになります。Workslopは、その負担が目に見える形で現れ始めたものだと言えます。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第73回

    Microsoft Researchが8月に公開した論文「Adoption of Generative AI in the Workplace」より。研究チームが複数の大企業におけるMicrosoft 365の利用データを分析したところ、生成AIを100回以上利用したユーザーでは、導入後20週間にWordなど生産性アプリでの操作量が21.2%増加しました。こうした活動量の増加がそのまま成果の増加を意味するわけではなく、AIによるアウトプットの増加が、受け手の負担を増やすWorkslopにつながる可能性があります

先例もあります。生成AIが最初に実用的に普及したソフトウェア開発では、2023年後半ごろから、大量生成されるコードをレビューする人間の作業がボトルネックになり始めました。同じ現象が、一般のワーカーの業務でも起き始めているのです。

作成コストが激減する時代に、人間が負う仕事

そう考えると、スティーブンソン氏が「D+バージョン」を求める理由も見えてきます。

数行の箇条書きでも、そこに本人が考えた問題意識や判断があれば、それを材料に議論できます。反対に、10ページにわたって美しく整理されていても、誰も重要な判断をしていなければ、読む側が代わりに考えなければなりません。

生成AIは、一人ひとりの「作る速度」を大幅に高められます。しかし、仕事は一人で完結するとは限りません。誰かが作り、読み、判断し、承認する。この流れ全体を見ずに「作る部分だけが速くなった」ことを生産性向上と捉えてしまうと、別の場所に新しい負担を生み出す可能性があります。

「作る」コストは、これからさらに下がるでしょう。文章だけではありません。プレゼン資料、画像、動画、ソフトウェアのコードも、これまでよりはるかに速く、大量に作れるようになります。

一方で、「これは必要なのか」「何が重要なのか」「どれを採用するのか」と判断するコストまで同じように下がるとは限りません。むしろ、作られるものが増えるほど、選ぶ仕事は増えていきます。

だからこそ、生成AI時代の生産性を、作成した文書の数、送ったメールの数、公開したコンテンツの数だけで測るのは危険です。個人の画面上では仕事が速く進んでいるように見えても、その先で同僚や顧客がより多くの時間を使っているなら、組織や社会全体では効率化していない可能性があります。

AIが人間の代わりに文章を書いてくれる時代になったからこそ、人間に求められる仕事も少し変わります。

何を伝えるべきかを決めること。不要なものを削ること。優先順位を付けること。そして最後に、自分の名前でその内容に責任を持つこと。AIがいくら速くなっても、この部分を省略してしまえば、節約した時間はどこかで別の誰かが支払うことになります。