倉本聰さんの侠気に 【 私の雑記帳 】

倉本聰さんの侠気に

 脚本家の倉本聰さんが亡くなった。テレビドラマ『北の国から』(フジテレビ系列)をはじめ、『前略おふくろ様』、『風のガーデン』など名作を次々と世に送り込んだ。

 1935年(昭和10年)に東京で生まれ、東京で育った倉本さんだが、1977年に北海道・富良野へ移り住んだ。自然の真っ只中に身を置き、脚本家や俳優を養成する『富良野塾』を開設し、後進の育成に注いでこられた。

 名作の『北の国から』が放送開始されたのは1981年。故田中邦衛さんが演じる主人公・黒板五郎と、都会から移住してきた子ども2人が北海道の原野の中で暮らすドラマに多くの視聴者が感動を感じた。

 このドラマは2002年まで続き、人と人のつながり、人と自然の関係を考えさせられるものとなった。倉本さんは時代が移り変わる中で、変えてはいけないもの、無くてはいけないものをじっと見つめ続けてきた。

 強者にもたじろがず、弱くても必死に生きようとする者には優しい眼差しを向ける侠気のある人であった。

 時々、お会いすると、怒気を含んだ声が出てきた。わたしたちが失いかけているものを、「それじゃ、駄目なんだよ」とでも言いたげに、熱量をもって語られる姿が印象的であった。

 『富良野風話』を31年連載

 本誌『財界』でも、1994年(平成6年)5月31日号から、『倉本聰 富良野風話』と題するコラムを連載していただいた。以来、2025年(令和7年)新春特別号まで約31年間の長きに渡って書き続けていただいた。

 第1回のタイトルは『知ラン権利』である。「富良野に来て18年、新聞というものをとっていない」という書き出し。倉本家は山の中腹にあり、冬は雪が積もり、通行不能になる。そこで新聞配達も至難になり、気の毒だからと、下界に箱を置き、倉本さん自身が新聞を取りに行っていたりしていた。

 かつて『朝毎読産日』と全紙を取っていた倉本さんも、読む新聞を減らしていった。最初、新聞の無い朝は何とも寂しく物足りないという感じだったが、それもいつしか慣れてしまった。週刊誌はそれ以上に読まなくなったという。

「ゴシップ、こきおろし、悪口、批評。それが例えばユーモアに充ちていたり、好意、親近、愛情、善意、すなわち性善にして書かれているなら良い。

 およそそうした善なる性が見られず、(中略)この世を性悪で汚染しようとやけくそのエネルギーを発揮している。そんな気分を味わうからである。無論、そうではない個所だってあるが…」

 倉本さんはそう記し、世間に『知る権利』があるのなら、こちらも『知ラン権利』を持つことにしたという。しかし、その後が面白い。 「飛行機を待つ間のラウンジでつい週刊誌を手に取ってしまう。知らぬことだらけだから仰天してのめりこむ。頁を繰っていく。

 心の中に静かに眠っていた邪しな好奇心がたちまち芽を出す」と続く。 「これだからいやなのだ、と年中思う。思うくせに、あればのぞきたくなる。そういう性が我ながら情けない」という書きっぷりに多くの方も共感する。

 『老いる』とは  『財界』誌での最後のコラムとなる2025年新春特別号では、『老いる』という題であった。

 「ここ1年余、にわかに、急激に耳が遠くなった。最初、あまり気づかなかったのだが、突然気づいたのは女房との音の格差である」という書き出し。奥様との会話も大声をあげるようになり、ついつい対話の量が減っていったようだ。

 80万円もする補聴器などを売りつけられ、それがしばしば故障したりして、会話の最中に突然無音の世界に投げ出され、「また孤独を味わうことになる」とある。

 「この暮で、齢90に達してしまった。書くという仕事はもっと続くと思っていたが、耳と指から老いが忍び寄るとは思ってもいなかった」とも記す。 『老いる』ことについても、自分を冷静に見つめながら、ユーモア精神を最後まで忘れなかった粋な人。それが倉本聰さんであると思う。合掌