
現在、日本経済が抱える最大の課題が一人当たり実質賃金を引き上げることにある点は疑う余地がなかろう。
最近、わが国では、実質賃金低迷の理由をもっぱら「労働分配率(=企業が生み出した付加価値のうち、どれだけが従業員の人件費に充てられているかを示す指標)」の低下─すなわち、経済の分配面に求める議論が横行している。近年日本の労働生産性は主要先進国と比較して遜色のない伸び率となっており、労働生産性が改善してきたにもかかわらず、それが十分に還元されてこなかったことこそが日本経済の最大の問題点だという議論である。
しかし、筆者は、こうした考え方には非常に懐疑的である。理由は、以下の通りだ。
第一に、こうした議論は、労働生産性の伸び率だけに注目しており、わが国の労働生産性の絶対水準が依然として極めて低いレベルにあることを見逃している。経済指標を用いる際には、伸び率と絶対水準をバランスよく見ることが肝要だ。日本生産性本部によれば、2024年の日本の時間当たり労働生産性は米国の52%、OECD平均の76%、一人当たり労働生産性で見ても、米国の54%、OECD平均の76%の水準にとどまっている。
第二に、労働分配率を測定する際には、しばしば統計的な誤差が発生する。技術的な話で恐縮であるが、実質賃金低迷の理由をもっぱら労働分配率の低下に求める論者は、財務省の「法人企業統計」から算出した数値を根拠とすることが多い。しかし、この統計は福利厚生費などが実態と乖離しており、労働分配率が低めに計算される傾向があると指摘する向きが少なくない。『経済財政白書』などが通常用いるデータで国際比較を行うと、わが国の労働分配率は低すぎるわけではなく、国際標準並みである可能性が高い。
第三に、近年日本の労働生産性が主要先進国と比較して遜色のない伸び率を示してきたことは喜ばしい限りであるが、米国と比べると、その伸び率は遥かに劣っている。
実際、過去20年間の米国と日本の「一人当たり実質賃金の伸び率(年率)」の差は1.5%ポイントであるが、これを、①時間当たり労働生産性、②一人当たり労働時間、③労働分配率、④交易条件、⑤保険料等の企業負担、という5つの要因で寄与度分解すると、①が0.6%ポイント、②が0.6%ポイントと、この2つの要因の影響が圧倒的に大きいことが確認できる。
結論として、わが国で一人当たり実質賃金を引き上げるには、時間当たり労働生産性の改善と、心身の健康維持と従業者自身の選択を前提にした上での、一人当たり労働時間の増加をまずは優先するべきである。労働分配率の引き上げも必要ではあるが、経済の分配面が一人当たり実質賃金低迷の主因であるという議論は、日本経済が抱える構造的な問題の本質を捉えることを妨げ、非常に有害である。