「顧客データがサイロ化され、一人のお客さまとして捉えきれない」――。デジタルマーケティングを推進する多くの企業が直面するこの壁を、100カ国以上でビジネスを展開するカシオ計算機はいかにして打ち破ったのか。
6月15日~17日に開催されたオンラインセミナー「TECH+データ×AIアクセラレーションDays 2026 Jun. データ×AIの本番運用を極める──組織・プロセス・技術がつながる実践知」において、同社 デジタルイノベーション本部 副本部長の齋藤隆行氏が登壇した。各事業部の「総論賛成・各論反対」、GDPRの要件を満たさない場合に生じ得る100億円超の潜在的コスト、そしてログイン統合の先にあるデータ活用の壁。次々と立ちはだかる障壁を前に、最初から大風呂敷を広げることなく、アジャイルかつ泥臭く推進したグローバルID統合と顧客理解基盤の進化のリアルな軌跡をひも解く。
分断された顧客体験からの脱却を目指して
カシオにおいて、グローバル共通のマーケティングプラットフォーム構築や事業共創の支援を牽引する齋藤氏。同社がデジタルマーケティングを推進するうえで長らく直面していたのは、顧客データが分断され、“一人のお客さま”として捉えられていないという課題だった。
2010年代後半、同社が100カ国以上で展開する各種サービスは、エリアごとに異なるアプリサービス、会員基盤、ECシステム、CRMツールが散在し、いわばサイロ化された状態にあった。「サービスごとに会員登録が必要で、マーケティング施策も分断されており有効活用できない。セキュリティ面でもデータガバナンスが利かず、非効率な運用やリスクと背中合わせの状態だった」と同氏は振り返る。
この状況を打開するため、カシオはグローバル共通の認証基盤となる「CASIO ID」を企画し、シングルサインオン(SSO)によるID統合を目指した。しかし、その根底にあったのは単なるシステム統合という目的ではない。
「私たちが定めたCRMの目的は『CASIOやG-SHOCKのファンを囲い込む』ことです。そのために、まずは負荷や分断を解消してストレスのない最高の顧客体験を提供し、さらにお客さまの趣味嗜好を理解して最適なコンテンツを届けることで、継続的な購買と長期的なロイヤルティ向上を目指しました」(齋藤氏)
こうしてグローバルID統合の号砲は鳴らされたが、ここから齋藤氏らの前に3つの大きな壁が立ちはだかることになる。
第1の壁:「組織の壁」——総論賛成・各論反対をどう崩すか
システム企画段階で経営会議の承認を得て投資の合意は形成されたものの、いざ現場でプロジェクトを進めようとすると、最初の障壁である「組織の壁」が顕在化した。
「投資についての総論は賛成されても、各サービスにはそれぞれの責任者がおり、独自の歴史や思いを持って運営してきました。そのため、『なぜ統合しなければならないのか』という各論レベルでの腹落ち感が得られず、合意形成に苦戦しました」(齋藤氏)
さらに、日本国内だけでなく、北米、欧州、ラテンアメリカ、アジアなど、世界各地の販社社長や現地スタッフとの交渉も必要だった。
この膠着状態を打破するため、齋藤氏らは当時これからリリースされる予定だった最重要の時計アプリサービス「CASIO WATCHES」に目を付けた。新規サービスから先行してSSO認証基盤を導入することで社内ユースケースの成功例をつくり、そこから順次、既存のサービスへ展開していくアジャイル的なアプローチを取ったのだ。
第2の壁:巨額の制裁金リスクと戦う「グローバルガバナンスの壁」
組織の壁を越え、次に向き合ったのは「グローバルガバナンスの壁」である。100カ国以上で提供されるサービスを1つのIDに統合するということは、各国の複雑な法規制をクリアすることを意味する。
とくに重くのしかかったのが、欧州の個人データ保護規則であるGDPR(General Data Protection Regulation、一般データ保護規則)だ。GDPRの制裁金は極めて高額であり、違反時の財務インパクトは全世界売上の4%、当時のカシオでは100億円規模となる算段であったという。
「法務部と緊密に連携しながら、各国でバラバラだった利用規約やプライバシーポリシーを刷新しました。データ移転契約(DTA)を本社と各販社で結び、欧州においてはデータ処理契約(DPA)を締結し、データ転送影響評価(DTIA)に関して本社とカシオ欧州のあいだで徹底的にアセスメントしました」(齋藤氏)
さらに、当時シンガポールに置かれていたWeb解析用サーバがGDPR対応における障壁となることが判明したため、急遽サーバをロンドンへ移転させ、過去の解析データを廃棄するなどの抜本的な対応まで行った。
第3の壁:SSOの先にある「データ活用基盤への進化の壁」
ガバナンスの壁を乗り越え、無事にグローバルIDによるSSOが実現したことで、顧客が複数のIDやパスワードを使い分けるネガティブな体験は排除された。しかし、ここで3つ目の課題である「データ活用基盤への進化の壁」が浮き彫りになる。
「ログインが統一されただけで、企業側のデータ活用は限定的なままでした。横断的な分析や深い顧客理解を行うには、ID情報だけでなく、アプリの行動データやECの購入履歴、Webの閲覧データなどを1つの場所でひも付ける必要があったのです」(齋藤氏)
そこで同社は、カスタマーデータプラットフォーム(CDP)の導入という追加投資に踏み切った。CDPにあらゆる顧客の行動データを統合することで、セグメント配信やパーソナライズ、製品企画へのフィードバックに活用できるダッシュボードの構築を実現した。
この基盤構築においては、これまでさまざまな製品を開発してきたエンジニア5名をデータエンジニアとしてリスキリングし、CDPの実装や運用に順次アサインしていったという。自社の業務を知り尽くした技術者をデータ領域で活躍させることで、現場に即したデータ統合が推進された。
アジャイルに課題をつぶす、そして見据えるAI時代のCRM
こうした壁を乗り越え、顧客理解基盤の進化を遂げたカシオ。齋藤氏は今後の展望として、プロファイリングデータの拡充によるハイパーパーソナライズの実現を掲げる。
現在取得できている年齢や性別といった基本属性や購入情報に加え、今後はアンケートなどを通じた価値観やライフスタイルのデータ、さらに2026年3月に国内リリースしたファンコミュニティから得られる愛着や思い出といったエモーショナルなデータも蓄積していくという。
「顧客の趣味嗜好から生成した『顧客タグ』と、コンテンツ側に付与した『マーケティングタグ』を掛け合わせることで、顧客ごとに最適な情報を最適なタイミングで届けるOne to Oneマーケティングを実現したいと考えています。作り手の想いを届けるナラティブマーケティングや、嗜好のモーメントを捉えたコンテンツの自動出し分けを目指しています」(齋藤氏)
さらに同氏は、この顧客タグとマーケティングタグの構造化されたデータを外部のAIに学習させることで、将来的にAIが適切なチャネルとタイミングを自動で判定し、最高の顧客体験を創出する時代を見据えていると語った。
「最初から大風呂敷の青写真を描いていたわけではない。まずはSSOでバラバラなサービスをまとめることを主眼に置き、そこから見えてきた課題を1つひとつつぶしていくなかで、CRMの目的である『最高の体験の提供』と『長期的な関係性の構築』に近付いてきた」と齋藤氏は講演を締めくくった。
その都度現れる壁を直視し、つぶし、構想を広げてきた——このアジャイルに課題を越える姿勢こそが、カシオ最大の資産なのかもしれない。


