フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
茂吉の相談
後継者の圭吉を亡くした茂吉は、信夫に「互いの会社を一つにし、製造から販売までを一貫させないか」と相談した。当面は茂吉が代表者となるが、やがては信夫がすべてを引き継ぐという提案だった。
すると信夫からは、「いますぐ無条件で、すべてを任せてくれるのならば、お受けしましょう」と返事がきた。「無条件で、すべて」とは。茂吉とてこれまで自分の信念に従って、研究所の方向性を定めてきた。家族のあとあとのこともある。いきなり無条件にといわれても、すぐには応じられない。もうすこし踏み込んで話を進めようとしたところ、信夫は、〈「あなたの方で会社にするなり何なりとしなはれ、わたしは自分の思うようにやります」と、気よわになった茂吉を突っ放した〉という。[注1]
信夫の憤慨
信夫の会社は1948年 (昭和23) 12月6日、すでに個人経営から資本金100万円の法人組織に改め、称号を「写真植字機製作株式会社」としていた。ちなみに、株式会社モリサワは、このときを創業としている。[注2]
圭吉の死去後の一連の出来事についての、信夫側の説明はこうである。
圭吉が亡くなった後、信夫は茂吉に一緒にやらないかと持ちかけられ、自分なりに今後の方策を考えた。写真植字機製作株式会社の資本金を倍額に増資して200万円とし、その半分を石井に持たせてはどうだろう。弟の豊からは反対を受けたが、信夫は押し切り、茂吉に提案しようと上京した。圭吉が亡くなって半年ほど経ったころのことというから、1950年 (昭和25) 6月ごろのこととなる。
茂吉に自分の考えを伝えると、彼はなにやら小さな紙片を出してきた。そしてこう言ったという。
〈君の考えに同意はできない。私はSKという新しい写植機をもっている。その機械を製作する準備も整っているし、東京を中心に販売地盤もできが上っている。……どうかね、森沢君、私の作る機械の下請けをしてくれないか〉
その言葉に信夫は憤慨し、
〈そうですか。わかりました。そんなばかばかしい話聞いていられません。私は写植機の発明者として、あなたの下につくことはできません。両方で別々にやりましょう〉
そう言って帰阪してしまった。
信夫が若ければ、以前ふたりが喧嘩別れしたときのように、この場限りと啖呵を切って別れていたかもしれない。しかし、信夫もすでに50歳近くなり、分別がついていた。信夫は工場に30人近い社員を抱えており、彼らのことも考えなくてはならない。しかも現在、写植機の販売は茂吉にまかせているのだ。茂吉とただちに手を切れば、信夫が写植機を売り込むルートも絶たれてしまうだろう。信夫は、そんな胸の内だったという。[注3]
株式会社写真植字機研究所の設立
モリサワの資料『写真植字機五十年』では、このとき信夫は茂吉から、SK型の下請けを頼まれたとしている。たしかにこの当時、SK型はすでにできていた。SK型 (SK-1型) とは、戦時中の1943年 (昭和18) に試作されたまま、出荷納入まで至れずにいた「石井式2604年型写真植字機」を指すからだ。A型の弱点を補い、横送り装置をつけた、縦組み横組み両用機である。しかし写真植字機研究所は、SK1型をそのまま出荷はしていない。改良に着手したのはこの時期――1950年 (昭和25) より後だろう。改良型は、1952年 (昭和27) に特許を取得し、1954年 (昭和29) に「SK-2型」として完成に至ったからだ。[注4]
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SK型写真植字機 (左) とMC型写真植字機 (右)
本間一郎『軽印刷と事務印刷』印刷学会出版部、1961 p.136-137 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2494399 (参照:2026年7月9日)
しかしもしかしたら、MC型への切り換えをしきりに主張する信夫に対し、自分のところにもSK型があると茂吉が話し、血気盛んな信夫が過剰に反応してしまったのかもしれない。
とにかく、会社を一本化しようという茂吉の提案は、実を結ばなかった。信夫の会社との合併をあきらめた茂吉は、1950年 (昭和25) 7月7日、それまでの石井写真植字機研究所を株式会社写真植字機研究所 (略称:写研) に改組した。資本金は60万円。社長には茂吉が就任し、専務に裕子を据えた。それに加えて、信頼する元研究所員である浅野長雅を凸版印刷から呼び戻し、空襲で焼けてしまったあと自然消滅していた印字部門を復活させて、浅野に任せることにした。そのほか、家族や近い親戚が、株主に名を連ねた。
写真植字機研究所の法人化と前後して、信夫から茂吉のもとに、「今後はA型機の製造を打ち切り、MC型のみを製造する」という通告があった。不本意だが、茂吉の工場の設備では機械本体の製造は不可能だったため、従わざるを得なかった。ただ、残っているA型機の諸部品は全部引き取りたいと依頼した。
わずかな亀裂が、ふたりの間に走りはじめた。[注5]
(つづく)
※次回は11月10日更新予定です。
[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.196-197、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.164-165
なお、石井圭吉没後の茂吉と信夫のやりとりについては、その年号や記述が上記資料の両者で大きく異なる。たとえばここでは、モリサワ資料では圭吉の通夜の夜に茂吉から信夫に「……私は主となってやっていく気力が失せた。これからは、そちらが主体となって、植字機をもりたててもらいたい」と依頼があったと書かれる (pp.164-165)。しかし息子を亡くしたばかりの通夜の夜に、すぐさま会社の今後の行く末を相談したり、しかも信夫に主として写植機をやっていくよう託したりするとも考えがたい。一方で写研資料における信夫も、傷心の茂吉を無下に突き放すような描かれ方をしている (pp.196-197)。いずれも視点の偏りが見られる描写のなかで、本稿では、筆者の判断によって描いている。いまとなっては年号と事柄も、彼らがそのとき何を言ったのかも、なにが事実に近いのかを突き止めるのは難しいが、これまで追ってきたふたりの性格や関係性をふまえての判断である。別説ももちろんあり得るだろうことは、ご了承いただければ幸いである。
[注2] 株式会社モリサワ100周年記念事業推進室 企画・制作『モリサワと文字の100年』モリサワ、2024 p.45
[注3] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.164-166
[注4] 布施茂『技術者たちの挑戦 写真植字機技術史』創英社発行、三省堂書店発売、2016 pp.14-16
[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.199、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.52
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
株式会社モリサワ100周年記念事業推進室 企画・制作『モリサワと文字の100年』モリサワ、2024
布施茂『技術者たちの挑戦 写真植字機技術史』創英社発行、三省堂書店発売、2016
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ