フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
予期せぬ客
1948年 (昭和23) に新型のMC型写真植字機の試作を完成させた信夫は、大阪に見に来てくれるよう、茂吉に手紙を送った。しかし茂吉は、なかなか来てくれなかった。信夫はあきらめずに何度も手紙を送った。茂吉の意見が聞きたかった。
信夫が茂吉に「A型写真植字機から、信夫が開発した新しいMC型写真植字機への全面切り換え」を提案したのには、理由があった。光源とレンズ系統が動くA型機の基本構造では、仕上がりに安定性が出ないし、横組みの能率が悪い。彼の考えたMC型は、横組みの能率を大きく上げるものだった。
しかし茂吉の了承なしに勝手に機械を切り替えるわけにはいかない。信夫は茂吉の腰の重さに焦れながら、A型機の製造を続けていた。
そんな1948年 (昭和23) 秋のことだ。 ある日、平凡社、そして東京印書館の創設者・下中彌三郎が、兵庫県明石市の信夫の自宅をたずねてきた。所用で京都に来ていたのだという。信夫は、下中の東京印書館がこの年 (1948) 2月にA型写植機を導入していることは知っていた。しかし訪問は、あまりにも突然だった。信夫は下中に来意をたずねた。
下中は、「明石には『亀の水』という有名な水があると聞いた。その水で淹れた茶を喫したい」という。
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兵庫県明石市にある「亀の水」。1664年 (寛文4年) 以前から流れ出ると伝えられる。水を吐く亀形の樋水口は、1719年 (享保4) 12月につくられた (明石市教育委員会設置の看板より) (2023年1月19日/撮影:雪 朱里)
偶然にも「亀の水」は森澤家近くの人丸神社の階段のそばにあった。信夫はさっそく水を汲んできて、下中に茶を供した。すると下中は「きみたちがつくっている写真植字機のことなのだが」と切り出した。
「出版界の趨勢は横組みがますます多くなる。だからもっと能率的に横組みのできる機械を考えなければだめだ」
信夫は答えた。
「実は縦組み、横組みが自由にできる新型写植機の試作機がすでに完成しているのですが、発表をためらっておりました」
それを聞いた下中は、「なんと。その機械を必要としている需要者がいるのに、なぜ発表しないのか。それは技術者の怠慢ではないのか」と信夫を叱咤した。
信夫はMC型写植機の設計図を下中に見せ、そのくわしい説明をした。下中が横組みの『児童百科事典』を企画したのは、おそらくこの頃だ。下中の頭のなかには、茂吉を督励してその完成を待っている細明朝体と、横組みも自在な信夫の新しい写真植字機が結びついたに違いない。東京印書館の和田栄吉の寄稿にも〈丁度このころ平凡社から「児童百科事典」の刊行が計画された。この事典は今までと違って版が横組になる。(筆者注:下中は) 工場で現場の技術者の意見や製品を仔細に見られて、縦組も横組も自由に出来る写真植字機ということを痛切に考えられたらしい〉とある。[注1] 下中は信夫の話を聞いて大いに満足し、「一日も早い実用機の完成を待っている」と信夫を激励した。[注2]
〈この時の先生の激まし (ママ) の言葉が森沢氏に与えた感激がいかに大きかったか。当時のことを話す森沢氏はほとんど涙を流さんばかりなのは今日も●らない〉(筆者注:●は印刷不鮮明により読み取りできず) [注3]
和田は後年、そのように記している。
茂吉の来阪
下中にここまで請われては、一刻も早くMC型写植機を世間に公表しなくては。信夫はまた、茂吉に来阪をうながす手紙を送った。茂吉がようやく大阪の工場にやってきたのは、1949年 (昭和24) 春のことだった。[注4]
信夫はうれしかった。茂吉がやっとMC型写植機を見に来てくれたのだ。はずむ心で機械を見せて、説明した。そして茂吉に言った。 「どうです? A型をやめてこれを出すようにしては」 茂吉は押し黙ったままだ。
実は茂吉は心のなかで、彼にしてはめずらしく不快な気持ちをたぎらせていた。機械の機能や形のことはともかく、信夫の得意然とした態度が原因だった。
信夫の話から、MC型の開発は茂吉と再提携した直後から始められたことがわかった。戦後の再提携にあたり、茂吉は自分の開発したすべてを信夫に公開したにもかかわらず、信夫は新型機開発のすべてを秘密裏に行い、特許まで出願していた (1947年5月17日に出願し、1949年6月16日に取得。特公昭24-177 / 特願 昭22-3261)。この間、茂吉は信夫から送られてくる粗悪なA型に悩まされ、手をわずらわされていたのだ。
信夫が新型機に夢中になりA型機をそっちのけにせず、陣頭に立って誠意と責任ある態度で監督し、製作を進めていれば、たとえ戦争直後の材料不足や粗悪な諸資材であっても、もう少しましなものができていたはずではないか。工員の話によれば、部品が上下逆さまについていた機械などは、写植機のことをなにもしらない下請工場に頼みっぱなしにしていたことが原因だという。
そんな無責任なことをしておいて、いきなりA型機からMC型機への全面切り換えに納得しろと言われても、茂吉が素直にうなずけるはずはなかった。
「機械のよしあしは、使ってみなければわからない」
どうにかその言葉だけを絞り出し、茂吉は東京に戻ってしまった。[注5]
信夫には、茂吉の態度が理解できなかった。いい機械ができたのになぜ、たった一言、否定的な言葉を残して去っていくのか。そんなふうに思うばかりだった。
新しい文字配列
この茂吉の来阪の際、ふたりの間でもうひとつ話し合われたことがある。文字盤の配列のことだった。
1946年 (昭和21) 11月16日、法令・公用文書・新聞・雑誌および一般の社会生活で使用する漢字として、内閣訓令第7号、内閣告示第32号で1,850字の漢字を掲げた「当用漢字表」が公布された。さらに1948年 (昭和23) 2月には、教育漢字881字および音訓表が公布された。
当用漢字は、義務教育の期間中に読み書きともできるように指導するために必要な教育漢字を基本に、日常生活に使う使用頻度の高い漢字を加えたもので、あまり使われない、とくに画数の多い漢字をできる限り少なくし、国民の漢字に対する負担を軽減しようという趣旨で定められたものだ。
これを受けて、茂吉と信夫は文字盤の収容字数とその配置に対して意見を交わした。しかしふたりの考えは相反するもので、まったく噛み合わなかった。
信夫は、植字能率を考えた。もちろん、文字の収容数が多ければ伏せ字が少なくて済むという利点はある。反面、収容文字数が多ければ、文字盤は大きくなる。文字盤を前後左右にすべらせて1つずつ採字する写真植字機では、文字盤が大きくなるほどその移動距離が増すという欠点につながる。つまり、ひとつの文章を印字するためにそれだけ時間がかかってしまうということだ。
信夫は、当用漢字の公布によって、今後、漢字は制限して使われるようになるだろうと予測した。さっそく毎日新聞社と朝日新聞社がおこなった新聞紙の漢字使用頻度調査を確認したところ、2,000字あれば99%以上、つまり新聞の文章のほとんどすべてが組めるという結果が書かれていた。もちろん、地名や人名、古典や漢籍などを組む場合を考えると2,000字では足りない。しかしそれでも、当用漢字に基づいて漢字数を絞ることが、植字能率上、大事なのではないか。それに、日常生活で使用する文字はできるだけやさしく読み書きできるのが理想だと考えた。
ところが茂吉は、信夫の説を頑として受け入れなかった。
もちろん茂吉とて、戦後の情勢のなか、当用漢字の制定は当然だと考えていた。だが、明治維新以後の国語・国字論争の歴史を考えると、当用漢字の制定がただちにすべての国民に受け入れられ、印刷用の文字もそれですべてが事足りるとは思えなかった。文学者たちも納得しないだろう。やはり印刷のためには、少なくとも約5,000字が必要だ。それが茂吉の考えだった。
結局、互いに歩み寄ることはなく、それぞれの信ずる文字配列に則って文字盤がつくられることになった。
信夫のMC型機では、従来A型機では35枚あった文字盤を28枚に減らし、使用頻度の高い文字を中心に、頻度の小さい文字を外枠にと使用度数に比例した分布方法を採用した。
茂吉は、少なくとも約5,000字が必要だとしつつも、これからは当用漢字や人名漢字の使用頻度が高くなると見越した。そこでそれらの文字を1級、2級に分類し、1級1枚 (270字)、2級8枚 (2,152字) の文字盤に入れた。当用漢字以外でも使用頻度の高いものを2級の残りとし、それよりも使用頻度の下がるものを3級8枚 (2,152字) 、4級15枚 (4,035字)として、合計32枚、総字数8,609字の新配列をつくった。つまり、32枚の文字盤で1書体を構成したのだった。[注6]
(つづく)
※次回は9月15日更新予定です。
[注1] 和田栄吉「印刷界と下中先生 (三)」『芳岳 やさぶろ探求雑誌 No.7』下中弥三郎刊行会、1962年 (昭和37) 4月 p.13
[注2] 『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会編、平凡社刊、1965 pp.265-266 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2983112 (参照:2026年6月12日) p.265、和田栄吉「印刷界と下中先生 (三)」『芳岳 やさぶろ探求雑誌 No.7』下中弥三郎刊行会、1962年 (昭和37) 4月 p.13
[注3] 和田栄吉「印刷界と下中先生 (三)」『芳岳 やさぶろ探求雑誌 No.7』下中弥三郎刊行会、1962年 (昭和37) 4月 pp.13-14
[注4] 石井茂吉がMC型写植機を見に大阪を訪れた時期は、写研とモリサワの資料で記述が食い違っている。『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.198-199には〈二十五年の春〉すなわち1950年春とあり、森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.30、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.160には〈昭和二十四年春〉すなわち1949年春となっている。写研の『石井茂吉と写真植字機』は、MC型写真植字機の件と、その後、ふたりが会社を一緒にするかどうかの協議をおこなっていた1950年 (昭和25) のやりとりが混ざっているように感じる。本連載では、モリサワの資料の記述をとり、茂吉がMC型写植機を見るために大阪を訪れた時期を1949年 (昭和24) 春とした。
[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.198-199、森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.30-31、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.160
[注6] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.31-32、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.162-163、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.58-60、文化庁 当用漢字表、1946 https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin02/index.html (2026年7月7日参照) 、小林敏「漢字の字体 その4 当用漢字字体表の告示とその字体 【日本語組版とつきあう 33】」公益社団法人日本印刷技術協会 (JAGAT) ウェブサイト https://www.jagat.or.jp/past_archives/content/view/5588.html (2026年7月7日参照)
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
東京印書館50周年社史編纂委員会『東京印書館の50年』、東京印書館、1998
下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』平凡社、1965
和田栄吉「印刷界と下中先生 (三)」『芳岳 やさぶろ探求雑誌 No.7』下中弥三郎刊行会、1962年 (昭和37) 4月
文化庁 当用漢字表、1946 https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin02/index.html (2026年7月7日参照)
小林敏「漢字の字体 その4 当用漢字字体表の告示とその字体 【日本語組版とつきあう 33】」公益社団法人日本印刷技術協会 (JAGAT) ウェブサイト https://www.jagat.or.jp/past_archives/content/view/5588.html (2026年7月7日参照)
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ


