複雑化する企業ITに「シンプル」が必要な理由。Appleの設計思想から考える

Appleは、製品やサービスの設計において「シンプル」という考え方を繰り返し掲げてきました。その考え方は、企業向けのデバイス管理やセキュリティ機能にも反映されています。デバイス、SaaS、IDなど管理対象が増える現在、企業ITにとってシンプルであることには、どのような価値があるのでしょうか。

コンシューマーからビジネスまで貫かれるAppleの思想

Simple to set up(シンプルに設定)、Simple to support(シンプルにサポート)、Simple to secure(シンプルにセキュリティ)、Simple to use(シンプルに使いこなす)——そして、Simplicity at work(シンプルに働きましょう)。

Appleが展開するビジネス向けWebサイト「Apple at Work」のスモールビジネス向けページでは、冒頭にこうした短いメッセージがスライド形式で次々と表示されます。

従業員の生産性や満足度の向上、セキュリティの強化、管理・運用コストの削減など、MacをはじめとするApple製品を企業に取り入れることで得られるメリットはさまざまありますが、あえてその中でもっとも大きなものを挙げるとすれば、このページでAppleが伝えているように、「ITをシンプルにできること」でしょう。IT管理者がデバイスの導入や設定、管理にかかる手間を減らすことができる。ユーザが複雑な仕組みを意識することなく、必要な機能やサービスを利用できる。つまり、IT管理者にとってもユーザにとっても、ITそのものに振り回されることなく、本来の仕事に集中できる環境をつくりやすいということです。

そもそも、こうした「シンプル」へのこだわりは、Appleという企業に通奏低音のように流れてきた思想です。「Simple can be harder than complex(シンプルにすることは、複雑にすることより難しい)」というSteve Jobsの言葉に象徴されるように、Appleは製品のデザインや操作性、ハードウェアとソフトウェアの連係など、さまざまな面でシンプルさを追求し、MacやiPhone、iPadをはじめとする革新的な製品を生み出してきました。そして、その姿勢は企業向けの製品やサービス、仕組みにおいても変わりません。Appleはここでもシンプルさを追求し、企業ITそのものに変革をもたらそうとしているのです。

Apple at Workのスモールビジネス向けページでは、「Simple」をキーワードにしたキャッチコピーが次々と表示されます。日本語版でも、「シンプルに設定」「シンプルにサポート」など、それぞれを日本語にしたメッセージを見ることができます。
【URL】https://www.apple.com/jp/business/small-business/

企業ITをシンプルにするAppleの仕組み

Appleが企業ITの「シンプル」を追求してきたことは、これまで整備してきたさまざまなビジネス向けの仕組みや機能から見て取れます。Appleは早くから、iPhoneやiPadを企業で管理するためのMDMの仕組みをOSに組み込み、その後Macにも広げることで、Apple製デバイスを共通の仕組みで管理できる環境を整えてきました。さらに2013年にはDevice Enrollment Program(DEP:現「自動デバイス登録」)を導入し、購入したデバイスをあらかじめ組織やMDMにひも付け、IT管理者が一台ずつ端末を設定することなく利用を開始できる、現在の自動デバイス登録につながるゼロタッチ導入の仕組みを整備しました。

2018年には、それまで別々に提供されていたDevice Enrollment ProgramとVolume Purchase Program(VPP)を「Apple Business Manager」に統合し、デバイスの登録やアプリの配布などを1つのWebポータルから管理できるようにしました。そして2026年には、Apple Business Managerを発展させた「Apple Business」を提供し、MDM機能まで内蔵。デバイスやユーザ、アプリ、各種設定など、Apple製品の導入・管理に必要な機能をより一元的に扱えるようにしました。

個々の管理機能についても、複雑さを減らす方向へ進化しています。たとえばAppleは、デバイス自身が状態の変化に応じて必要な設定を適用することで、従来のMDMより効率的な管理を可能にする「宣言型デバイス管理(DDM)」への移行を推進しています。また、Platform SSOでは、Macへのログインと企業のID基盤を連係させることで、ユーザが複数の認証情報を使い分ける煩雑さを減らしています。

そして、企業ITをシンプルにするのは、こうした管理の仕組みだけではありません。Apple製品は、ハードウェアからOS、ソフトウェアまでをApple自身が一貫して設計しているため、企業側で複数のベンダーや異なる製品の組み合わせを前提に環境を構築する必要が少なく、導入や運用をシンプルにしやすいのが特徴です。セキュリティについても、FileVaultやGatekeeper、XProtectをはじめとするさまざまな機能がOSやハードウェアに組み込まれているため、基本的な保護の仕組みをすべて後から追加していく必要はありません。

ここで重要なのは、Appleが目指す「シンプル」とは、単に機能を減らしたり、仕組みそのものをなくしたりすることではないという点です。2013年のiOS 7発表時、当時Appleでデザイン担当上級副社長を務めていたJony Iveが「True simplicity … is about bringing order to complexity(真のシンプルさとは、複雑さに秩序をもたらすこと)」と語ったように、複雑な仕組みそのものをなくすのではなく、それを製品やシステムの側で整理し、ユーザやIT管理者が意識しなければならない複雑さを減らす。Appleが企業ITで追求してきた「シンプル」も、こうした考え方の延長線上にあると言えるでしょう。

2026年に発表されたApple Business。発表時のプレスリリースで、AppleのSusan Prescott氏は、ビジネス向けの製品やサービスを「シンプルで安全な1つのプラットフォーム」に統合し、企業が本業に専念するための時間を増やすことへの期待を語っています。
【URL】https://business.apple.com/ja-jp/

DDMはデバイス自身が状態に応じて必要な設定を適用することで、従来のMDMより効率的な管理を可能にする仕組みです。Appleは2021年にDDMを発表し、いち早くその移行を推進するなど、IT管理者がよりシンプルかつ効率的にデバイスを管理できる環境づくりを進めています。
【URL】https://developer.apple.com/videos/play/wwdc2021/10131/

なぜ今、企業ITをシンプルにする必要があるのか

しかし、こうした「シンプル」という考え方は、これまでの企業ITにおいて、意外とないがしろにされてきたのではないでしょうか。企業は新しい技術やサービスが登場するたびに、それらを取り入れながらIT環境を発展させてきました。その一方で、既存のシステムや運用を残したまま新しいものを追加したり、個別の要件に合わせて仕組みを継ぎ足したりすることで、IT環境は次第に複雑さを増してきました。

そして現在、その複雑さはさらに増しています。かつては社内のWindows PCやActive Directory、ファイルサーバなどが企業ITの中心でしたが、現在はクラウドの普及によってSaaSが増え、スマートフォンやタブレットも業務に欠かせなくなりました。さらに生成AIやAIエージェントの活用も始まり、デバイスだけでなく、IDやアクセス権、アカウント、ライセンス、データ、セキュリティポリシーなど、企業が管理すべき対象は大きく広がっています。

もちろん、利用するサービスやデバイスが増えること自体が問題なのではありません。問題は、それらを導入するたびに新たな仕組みや個別の運用を積み重ね、IT環境そのものが複雑になっていくことです。IT基盤が複雑になるほど、新しい生成AIやSaaS、デバイスを導入する際にも、既存システムとの連係や認証、セキュリティポリシーなどの検証や調整に時間がかかり、新しいことに取り組むスピードまで鈍らせてしまいます。

そもそも、ITはそれ自体を使いこなすことが目的ではありません。人がより少ない手間で仕事を進め、そこで生まれた時間を、新しいアイデアを考えたり、新しい仕事に挑戦したりするための道具です。だからこそ、ITそのものは可能な限りシンプルであるほうがいい。利用する人が複雑な仕組みを意識せずに仕事に集中でき、管理する人もITの維持や運用に必要以上の時間を奪われない環境をつくることが重要です。

もちろん、Apple製品を導入するだけで、企業ITのあらゆる複雑さが解消されるわけではありません。それでも、ハードウェアからOS、セキュリティ、デバイス管理までを一貫して設計し、ユーザやIT管理者が意識しなければならない複雑さをできるだけ減らしていくAppleのアプローチには、これからの企業ITを考えるうえで大切なヒントがあります。

Simplicity at work──。「シンプル」という言葉は、あまりにも身近で、ありきたりに聞こえるかもしれません。しかし、Appleの「シンプル」は、単に製品や仕組みを簡素にするということではなく、本来は複雑なITの仕事を製品やシステムの側で引き受け、できるだけユーザや管理者から見えなくし、意識させないことを意味しています。ITをシンプルにすることで、人の時間を取り戻し、新しいことに挑戦する余白をつくる。そして、人も企業も成長し続けられる環境をつくる。ITが複雑になり続ける今だからこそ、企業ITにおける「シンプル」の価値を、あらためて考えてみる必要があるのではないでしょうか。

調査会社Gartnerは、2025年に公開したリサーチレポートで、企業に対して「Simplification(シンプル化)」を優先するよう提言しています。同社の調査では、85%の組織が「シンプル化はビジネスの成功に不可欠」と回答しており、Appleが重視する「シンプル」と同じような考え方が、現在の企業経営においても重要なテーマとして認識されていることがわかります。