量子コンピュータによって公開鍵暗号が解読可能になる日(Q-Day)が迫りつつあると予測されています。この脅威は「未来の話」ではなく、現在のうちに暗号化データを盗み取っておくHNDLという攻撃が懸念されています。

その攻撃とは、暗号化通信やデータを「今」盗み取り、量子コンピュータが実用化されたタイミングで「後から」復号するという手法です。まさに、「今すぐ」の対応が求められているのです。

このような背景から、本連載では、企業や組織において、AIと並んで重要なテーマになりつつある「PQC(耐量子計算機暗号)」について、技術動向から対応の進め方まで解説します。

第1回となる今回は、PQC対応が必要な理由、量子コンピュータの実用化時期、国内外のPQC標準化動向、そして対応を先送りした場合の影響について整理します。

PQC対応は、「まだ先の話」と捉えられがちなテーマですが、多くの企業にとって今すぐ取り組むべき経営課題になりつつあります。

量子コンピュータの脅威は「未来の話」ではない

「量子コンピュータの実用化はまだ先の話」という認識をお持ちの方も多いのではないでしょうか。しかし、今やその前提そのものが見直しを迫られています。

現在広く使われているRSAやECC(楕円曲線暗号)といった公開鍵暗号は、従来のスーパーコンピュータで解読しようとしても数兆年という膨大な時間がかかるとされ、事実上解読が不可能であることが安全性の根拠となっていました。 しかし、量子コンピュータが実現すれば、「Shorのアルゴリズム」という素因数分解や楕円曲線問題を現実的な時間で解読できる量子アルゴリズムによって、公開鍵暗号は数分から数日のうちに解読される可能性があるとされています。

近年、量子コンピュータの開発競争は加速しています。2024年12月にGoogleが発表した量子チップ「Willow」は、量子ビットを増やしながらエラーを抑制する量子誤り訂正の課題において、重要な進展を示しました。

今年になって中国の研究チームは、超伝導方式に加え、光量子方式の量子計算機でも、特定の計算問題において現在最速のスーパーコンピュータの約10の54乗倍という計算性能を示し、量子超越性を達成したと報告しています。

このように量子コンピュータの開発は、国家の威信を賭けた争いであり、地政学的観点から技術の進展は非公開にされることが多いため、Q-Day(量子コンピュータで公開鍵暗号が解読可能になる日)の時期は、研究機関によって多少ばらつきがあるものの、早ければ2029年から2030年ごろには達成されるとの予測があります。

ここで重要なのが「HNDL(Harvest Now, Decrypt Later)」という考え方です。これは、攻撃者が現時点で暗号化された通信やデータを盗み取って保存しておいた上で、将来量子コンピュータが実用化されたタイミングで復号するという手法で、「今採取して後から解読する」という現在進行形の攻撃手法です。

つまり、量子コンピュータが実際に登場するかどうかにかかわらず、長期保存が必要な機密情報や個人情報、知的財産を扱っている企業にとっては、「今すぐ」対応を検討すべき理由がすでに存在しているのです。

  • HNDL(Harvest Now, Decrypt Later)攻撃のイメージ

    HNDL(Harvest Now, Decrypt Later)攻撃のイメージ

PQCの標準化はすでに動き出している

こうした背景を受け、PQCの標準化の動きが着実に進んでいます。

2024年8月、米国NIST(米国立標準技術研究所)は、PQCの標準暗号規格であるFIPS 203(ML-KEM:鍵共有)、FIPS 204(ML-DSA:署名)、FIPS 205(SLH-DSA:署名)を正式に確定しました。

NISTは、量子コンピュータによる攻撃に脆弱な暗号アルゴリズムを段階的に非推奨とし、2035年までにNIST標準から原則として移行する方針を示しています。

さらに2026年6月、トランプ米大統領はPQCへの移行を加速する大統領令に署名しました。米連邦政府の重要資産や影響度の高い情報システムについて、鍵確立では2030年末まで、デジタル署名では2031年末までにPQCへ移行する方針を示しています。政府調達についても、対象となる契約事業者に2030年末までのPQC準拠を求める連邦調達規則の改定案を策定するよう指示しています。

日本政府の動きも本格化しています。2025年11月、内閣官房国家サイバー統括室は関係府省庁連絡会議として中間とりまとめを公表し、政府機関等のPQC移行を原則2035年までに完了させる方針を示しました。

さらに2026年3月には、CRYPTREC暗号リストが改定され、電子政府推奨暗号リストに「PQCリスト」が新設されるとともに、鍵共有アルゴリズムML-KEMが正式に追加されました。つまり、PQCが日本の電子政府推奨暗号として位置づけられたこととなり、政府調達の基準がすでに変わり始めていることを意味します。

  • PQC移行に向けた主な動きとQ-Dayまでのタイムライン

    PQC移行に向けた主な動きとQ-Dayまでのタイムライン

「対応しない」ことのリスクと影響

では、PQC対応を先送りした場合、どのようなリスクがあるのでしょうか。

まず、前述のHNDL攻撃によるデータ漏えいリスクです。特に長期保存が必要な契約情報、個人情報、研究開発データなどを扱う企業においては、今この瞬間にも暗号データが盗まれていたとしてもおかしくないと考えるべきです。

今すぐに被害に気付かなくとも、Q-Dayを迎えた瞬間、重大なデータ漏えいの事実を突きつけられる可能性を秘めています。

次に、システム改修の規模とコストを把握すべきです。日本政府の中間とりまとめでも、PQCへの移行は鍵長の大幅な増大を伴うため、アプリケーションやプロトコル、データフォーマットに大きな変更が必要となり、改修のコストや期間が膨らむ可能性があると示されています。

既存のIT機器においては、ソフトウェアをバージョンアップするだけでPQC対応が可能なものもありますが、新しいハードウェアへ更新したほうが良い場合も考えられるため、リスク回避のためのコストを正しく把握し、早期にPQC対応準備に着手すべきです。

最後に、取引先や調達基準からの排除リスクが考えられます。政府調達や金融機関との取引において、PQC対応が事実上の前提条件となる流れが強まれば、対応が遅れた企業はビジネス機会を失う可能性があります。

実際に金融庁やG7サイバー・エキスパート・グループはすでに金融機関向けの具体的な移行ロードマップを提示しており、金融分野を中心に対応の具体化が先行しています。

さらに、仮に将来HNDL攻撃による情報漏えいが表面化した場合、「対応の存在を知りながら着手していなかった」という事実は、単なる技術的な不備を超えて、経営判断そのものへの信頼を損なう問題として受け止められかねません。 サイバーセキュリティへの取組み状況そのものが、企業価値や社会責任に直結しつつある現在において、最も軽視できない観点かもしれません。

まずは自社の暗号利用状況を知ることから

量子コンピュータの実用化時期そのものには不確実性が残るものの、標準化の確定や、各国政府の具体的な期限設定、そして主要IT企業による機能実装という動きは、すでに現実のものとなっています。「いつ量子コンピュータが実現するか」ではなく「すでにPQCに備えているか」が問われる局面に入ってきていると言えるでしょう。

企業にとって重要なのは、自社がどこで、どのような暗号方式・鍵長を使用しているかを正確に把握すること、そしてその中でも優先的に対応すべき箇所を見極めることです。この「クリプト・インベントリ(暗号利用状況の棚卸し)」こそが、PQC対応の確実な第一歩となります。

  • PQC対応の第一歩は「クリプト・インベントリ(暗号利用状況の棚卸し)

    PQC対応の第一歩は「クリプト・インベントリ(暗号利用状況の棚卸し)

次回は、PQCに関わる詳細な技術解説と、クリプト・インベントリを含めたPQC対応の具体的な進め方やチェックポイントを解説します。