
大阪・関西万博が開幕して
─ 4月13日ついに大阪・関西万博が開幕しました。立野さんは大阪商工会議所の副会頭として準備を進めてこられたと思いますが、いまどんな思いですか。
立野 出展される中小企業・スタートアップの企業さんは素晴らしい最新の技術や未来を感じさせるアイデアが発表されています。これを次の時代を担う世代に特に見てもらって、何年後かに「ああ、あのとき見た夢のような技術が、こう活かされてここにあるんだな、というのを感じてもらえたら1番嬉しいです。また、こんなすごい技術を持っている企業に自分も就職してみたいなということにも繋がると思っています。そういう夢を持ってもらうきっかけになればと思いますね。
─ 55年前に開催された大阪万博も、若い人たちに大きな夢を与えましたね。
立野 そうですね。来場者の関心が高い、月の石なんかも、子どもたちが見て興味を深めることで宇宙産業の発展に繋がるかもしれません。自分の目で見て世界にはこんな技術があるのかとか、行ってみたいなとか、そういうきっかけになるといいと思います。
─ インバウンドは東京よりも大阪のほうが人気があるという話も聞きますが、なぜだと思いますか。
立野 やはり大阪には親しみやすさ、食べ物が安くて美味しいということも大きいのではないでしょうか。お好み焼きやたこ焼きなど、自分で焼くことに参加できたり、目の前でひっくり返す動作も外国の方には面白くうつるようです。
ドアハンドルで国内、世界でシェアNO.1
─ ユニオンは建築のドアハンドルで国内シェアがほぼ9割と聞いています。たくさんの種類をつくっておられると思いますが、こだわりはなんですか。
立野 正確な統計を取ったことはないですが、例えばホテルやオフィスはほぼ100%当社の商品が付いています。高級なものから安価なものまで幅広い種類を持っています。
ドアハンドルの魅力というのは、デザインを色々考えるということと、作っていく過程の楽しさ、最後は手で握った時の感触が良いかどうかですね。
一番は、使うお客様が必ず怪我をしないような安全なハンドルづくりを心がけています。
─ 立野さんは2代目社長ですが、創業者のお父さんの話を少し聞かせてくれませんか。
立野 父は石川県から出てきて大阪の西孫商店という会社で丁稚奉公をしていました。日本で1、2位の建材を扱ってた会社のようです。
しかし戦争で出兵して帰って来たときには、その西孫商店は廃業するということになり父は昭和24年に独立しました。その後資金繰りが難しくなって、一度倒産しています。
そのあと再起する時に、代理店ではなくメーカーでないとだめだというような思いがあったようです。戦後13年で復興期に建物が盛んに建ち始め、いろいろな店がハンドルを作ってくれと頼みに来ました。そこで当社はドアハンドル専門ということで事業をやってきました。
─ 他社に負けずにやってこられたのは、やはり品質が良かったってことですか。
立野 そうですね。それから当社は今まで扱っているところのマイナス部分を、最初からクリアしてやろうということでやってきました。おしゃれなデザインで材質も種類が豊富。それからお客様の選択の幅を広げるためにカタログを作ったということも他社との大きな違いですね。
─ 当時ハンドルのカタログは珍しかったんですか。
立野 ええ。1958年(昭和33年)ですからまだありません。印刷は通常白黒でしたが、それを色鉛筆で描いてカラーカタログにしたのも当時は珍しく、業界でも有名でしたね。
それからドアハンドルのデザインの目を養うために、一度目の倒産から経営を立て直したあとに、父は世界一周の視察に行ったようです。非常に好奇心が強い人だったので、新しいことを見たい、世界の情勢を見たいということで3ヶ月くらいかけて勉強に行ったと。ドイツに行ってある工場を見たときには、綺麗で効率よく動いていた工場に感動したと言っていました。
その素晴らしい工場では従業員にタバコを吸わせなかったからだと言っていました。それを見て、父はチェーンスモーカーでしたが、帰国してからすぐにタバコを止めましたね(笑)。
常に最先端を走れという創業者の言葉を継いで…
─ デザインにこだわるということは、社員にデザイン関係の人たちも多いんですか。
立野 ええ。多いですし、有名な先生とコラボの商品もあります。前回の大阪万博の時も、当時建築家の黒川紀章さんや磯崎新さんたちと一緒に万博の建物に合わせたハンドルをオーダーメイドで作ったことで、当社への信頼が得られたということもあります。
それから1964年の東京オリンピックの時に建てた競技場やホテル、新幹線の駅舎のハンドルは、全てわたしどものハンドルを納めさせていただきました。それで1970年の大阪万博も、パビリオンでハンドルを使うものは全て納めさせていただきました。特に若手の建築家がオーダーでやりたいという要望が多かったですね。
そのときの材質は南部鉄やアルミを使いました。南部鉄は押板のもので、今でも残っています。恐らく日本的なものを表現したいということでの要望だったと思います。
─ 創業者の言葉で印象的な言葉は何かありますか。
立野 言葉としては、二番煎じはやるなということですね。常に最先端を走れ、先駆者になれということですね。
何をやるにしても、一番先に取り組んで、人の物を真似するなということはいつも言っていました。ですから当社の新製品の8割以上は意匠権を取って販売しています。そうでないと、われわれのような小さな会社は守れないということです。
ですから海外企業は参入して来れないですし、もちろん国内の他社もわれわれが特許を持っているので作れません。海外で開催される万博の日本館や、日本大使館はほぼ100%、当社のドアハンドルが付いてました。
─ 大使館は各国をもてなす交流の場ですよね。
立野 はい。ですからよく当社の営業マンが言うのは、われわれのハンドルは建物の顔だと。建物に入る時に最初に触れるのがドアハンドルですから
。 ─ 人の手が触れるから触感も大事ですね。
立野 そうなんです。バブルの時代に協力工場で納期が間に合わない時、台湾や埼玉県の川口市に持っていったのですが、できないと断られました。
わたしどものハンドルは、触った時の感触を出すのがなかなか難しいのです。でも関係を築いてきた協力工場は、ツーカーで仕上げがわかっていますからスムーズに仕上げてくれます。
それからわれわれは自社工場を持っていません。企画をして、それを作ってもらって販売をするというファブレス経営でやっています。
海外企業とどう戦うか
─ 日本も西洋建築が多いですが、世界のドアハンドルメーカーで有力な競合メーカーはいるんですか。
立野 建材メーカーは大きなところがあります。ただハンドルという小さなニッチの世界では、わたしどもが世界一です。他の建材など扱う大きな会社は世界にありますが、特化している会社はありません。世界でどこを見てもわれわれのドアハンドルのカタログはないのです。
ただ、事業を特化してしまうとやはり売上規模は小さくなってしまいます。ですから国内だけでなく、海外にも売りたいと思って、若い時にはアメリカにもよく行きました。
設計事務所に行ったら、これはジュエル(宝石)だと言われるほどでした。でも、高いと。日本のように繊細な感性ではないので、ドアのハンドルといったそこまで細かいところに、あまりこだわりがないのだと思います。
─ 特にアメリカでそう感じましたか。
立野 アメリカもヨーロッパでもそうですね。ただそれが徐々に最近変わってきたかなという感じがしています。そういう細かいところまで、文化レベルや感性の感度が上がってきたのだと思っています。
─ よくデザインの国と言うとイタリアが出ますが、受け止めはどうですか。
立野 イタリアは工場を見させてもらいましたが、本当に小さい規模で町工場です。今は全部アッサアブロイという世界トップのスウェーデンの会社に買われてしまいました。
─ 現在はほぼ国内事業がメインですが、今後は海外進出も考えていますか。
立野 はい。海外に売りたいと思っています。アジアは徐々に進出していますが、やはりわたしはこれからアメリカ、ヨーロッパ、インドに売っていきたいです。インドは最近徐々に引き合いが増えてきています。
─ 中国はどうですか?
立野 工場を持っています。先代は絶対に工場を持つなという考えだったのですが、わたしが聞かず工場をつくり苦労しました。最近は、高級住宅などで使っていただいたり、少し良くはなってはいますが。
ニューヨークでも、チタンのハンドルを使ってもらえるようにもなってきました。アメリカでは作れないようなハンドルは売れるケースが多いですね。2001年にテロがあったアメリカの世界貿易センタービルの跡地に建った新しいビルには我々のドアハンドルが使われています。
それから台湾や韓国、シンガポールの良いホテルやオフィスには入っています。
─ 世界での知名度も浸透してきたと。やはり手触りが良いということで人気があるのでしょうか。
立野 はい。それと海外の人はそこまでハンドルのデザインに関心が今まで無かったのですが、われわれの商品を見て面白いということで、是非こういうのを使ってみたいということが多いんですね。
この前もニューヨークに行き建築事務所を訪問してドアハンドルを紹介したのですが、南部鉄や漆のように、色々な日本の伝統工芸をドアハンドルに使った商品に興味を持ってもらいました。それらをアメリカをはじめ世界に売っていきたいと考えています。
またこれだけいろいろな原材料が上がっていますし人口減少が進みますから、国内で売上を拡大していくことは難しい。ということはわれわれも海外に行かざるを得ない。わたしはそれができる会社しか未来はないという強い危機感を持っています。
新しいもの、時代に合わせたものをやっていく。そういう 社員、感性を持たないとダメだと思っていますので、若い人には貪欲に学んで海外の勉強も活かして欲しいと思っています。
ずっと続けてきた社会貢献
─ 立野さんは「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」の代表も長年されてきました。この活動はどういう経緯で始めたのですか。
立野 元々は英国発祥ですが、貧しい子ども達を助け、支援する団体「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」を立ち上げ、代表を15年ほどやりました。
日本に作る時に大阪青年会議所と、東京の国際婦人福祉連盟と協力してつくりました。主には麻生太郎さんのお母さん・麻生和子さん、セイコー名誉会長の服部禮次郎さんの奥様・服部悦子さん達と現地に学校を建てたり、子どもたちの栄養改善をする活動をしたりしました。年間60億円位の規模で支援している今は国内でも大変大きな団体になったと思います。
名誉総裁であったアン女王と初めてお会いした時、「日本にこういう団体ができて本当に嬉しい。あなたがたのような若い人が取り組んでいるので、すぐに大きくなるでしょう」というような言葉をかけてもらったときは、とても嬉しかったです。最初はある人の勧めでしたが、経営以外でもライフワークとして、こういった活動にも積極的に取り組むようにしています。