死の世界に包まれて見た「命」

  • 2005年7月26日、野口飛行士はスペースシャトル・ディスカバリー号で打ち上げられた

    2005年7月26日、野口飛行士はスペースシャトル・ディスカバリー号で打ち上げられた (提供:NASA)

無謀に宇宙を目指したわけではない。帰ってこない可能性がゼロではないことを受け入れた上で、家族のために「死なないために何をすればいいか」、考えうるあらゆる対策を施した。事故から2年半後の2005年7月末、野口飛行士は初飛行(STS-114ミッション)に飛び立った。約8分30秒後、エンジンが止まった時に見た地球の姿が、宇宙飛行士としての26年間の中で一番印象に残っているという。「これを見るために宇宙飛行士になった。無重力の世界に包まれて、目の前に球体の地球がまさしくぽっかり浮かんでいる。何年経っても忘れられない光景」だと。

そして約15日間の飛行中、3回の船外活動をチーフとして成功させた。この船外活動で、野口飛行士は独特の身体感覚を経験した。筆者は「宇宙の体験が身体に残っているうちに話したい」と野口飛行士から連絡を受け、同年秋ヒューストンに飛んだ。

  • 第1回目の船外活動中の野口飛行士

    第1回目の船外活動中の野口飛行士。宇宙服の赤いラインはチーフの証 (提供:NASA)

「宇宙船の外に出ると、(宇宙は)生き物が生きていけない世界だと直感的に感じる。しんしんとそれは伝わってくる。冷たさじゃない。静けさかもしれない。空気がないから音がない。生き物の気配がなく、無生物感に満ちている。命がない世界に包まれて緊張感はあった。でも恐怖はなかった」。ホテルの会議室で、野口飛行士は宇宙体験を思いだすように遠くを見つめながら、静かに言葉を紡いでいく。私と編集者はじっと耳を傾けながら鳥肌が立つ思いだった(詳しい内容は「宇宙においでよ!」(野口飛行士、林公代 講談社)に初出)。

船外活動で宇宙に出る前には、宇宙船の玄関口にあたる「エアロック」の気圧を徐々に下げていく。気圧が下がるにしたがって、音が徐々に小さくなっていく。エアロック内が宇宙空間と同じゼロ気圧になったところで、宇宙側のドアをあける。その時「(現生と死後の世界を隔てる)三途の川を渡って、あの静かな世界に行くんだ」と感じたという。

生き物の存在を許さない死の世界に包まれて、自分の身を守るのは宇宙服だけ。宇宙服の内側は命で外側は死。野口飛行士は「ヘルメットが割れれば自分は死ぬ」という「生と死の境界」にいた。

その極限の世界で対面した地球の「命の耀き」は、奇跡のように感じたという。「宇宙で死の世界に包まれて、僕は命がどこにでもあるものではないことを実感した。(中略)命があると実感した星は地球だけだった」。「死と隣り合わせで、命の輝きに見ているからこそ、地球は美しい」(「宇宙においでよ!」より)。

4回目の船外活動で感じた「この先、死」

  • ソユーズ宇宙船の前での野口飛行士

    2009年12月10日。ソユーズ宇宙船の前で。バイコヌール宇宙基地で撮影 (提供:NASA/Victor Zelentsov)

2回目の宇宙飛行は、2009年12月~2010年6月までのISS長期滞在。この時、野口飛行士は日本人初のソユーズ宇宙船船長補佐(フライトエンジニア)を担った。非常事態で船長が操縦できなかった場合、船長に変わり操縦を担う重要なポジションだ。NASAもロシアも宇宙船の操縦桿は基本的に外国人には渡さない。フライトエンジニアの資格をとるまではロシア人でも結婚できない(ほど難しい)と聞く。最終試験には訓練担当官だけでなく、宇宙船を開発したメーカー職員も立ち会い、まるで法廷のように口頭試問で行われるそうだ。「この飛行士に操作を任せられるか」が徹底的に見極められる。

実は野口飛行士は2度目の宇宙飛行に飛び立つ前は、(帰還したら)「宇宙飛行士を辞めるつもりだった」と「宇宙に行くことは地球を知ること」で語っている。高校時代、宇宙飛行士に憧れたきっかけだったスペースシャトルへの搭乗を果たし、仲間の遺志を継ぐこともできた。一方、人類初の宇宙飛行を成し遂げたのはロシア。ロシアの宇宙開発を知らなければ、プロの宇宙飛行士としては1人前でないと考え、ソユーズ宇宙船でISSに行き、長期宇宙滞在を果たした。

  • 野口飛行士がISS滞在中、展望窓キューポラが取り付けられた

    野口飛行士がISS滞在中、展望窓キューポラが取り付けられた。ここから見る地球の光景をツィッターで発信。「私の街を撮って」というリクエストが世界中から殺到。オバマ大統領(当時)から「King of twitter」と呼ばれる (提供:NASA)

「宇宙飛行で同じことを2回繰り返すつもりはありません。1回1回挑戦しがいのあるテーマを探す」(「宇宙に行くことは地球を知ること」より)。ところが2回目の飛行後はなかなか新たな挑戦テーマが見つからない。スペースシャトルが引退すると米国人宇宙飛行士が大量にNASAを去った。宇宙飛行士養成コースの同期のほとんどが民間企業に転職し、活躍していた。正直、羨ましい気持ちもわいたという。燃え尽き症候群を体験し、模索の中で宇宙体験について内面世界の変化を客観的にとらえたいと、東京大学の研究員として「当事者研究」を始める。