豊かな文化こそが生み出す創造的価値
司会:文化・教養がないと、人間としての価値は高められないというのはあると思います。そうすると、人間としての価値をどう高めていきましょう、ということですかね。文化に触れる機会を増やすということは、社会全体がその価値をどうやって高めていくか、という方向、つまり文化の醸成をする意識を持つ必要がある。文化というものは、貧すれば鈍するの状態だと、どんどん細っていく。文化が死んでいくということは、食べていくのが精一杯という社会を意味するわけで、そうなると、何のためのAIか、という話にもなりかねないわけです。そういう意味では、文化的教養のある人間を社会としてどう育てていくか、という話が重要になってくる。ちょっと、当初想定していた話とはまったく真逆な方向性になってきました。
藤原:私はね、そういうことこそ、家庭の役割だと思うんですよ。つまり、文化って何かというと、その人のバックグラウンドですよね。どんな親だって、それなりのバックグラウンドを持っているわけです。例えば夏休みの宿題なんかは親がもっと手をだしても良いんじゃないかと思うんです。親と子供がちょっと隠れて協力関係で合作するなんてのがありますけど、あれをもっと大々的に親子で合作したって良いんじゃないかと思うんです。そうでもしないと親から子供に、このごろだと伝わるものなんかないですよね。
昔はそれこそ、自分の商売の現場があったり、家の中で、職人がやっている仕事を子供が見て、それなりの伝統とかを引き継いでいったんでしょうけど、今は親がみんな、家の外の職場に出てしまって家庭とは違うものになってしまっている。そうであれば、いっそのこと、夏休みの宿題などは親子の合作でもよしとする、親子合作にしなさいというと、また大変なことが起きるので、強制は困るんだけど、親子合作くらいは目を瞑ってやるっていうような、そういうのもありみたいな社会にしないと、いけないんじゃないかなと思うんです。
今の世の中のあり方ってかなりストイックでしょう。子供は子供でちゃんと自分の能力を発揮できるようでないといけない。外から何も手を出してはいけない。だから友達と協力しちゃいけない、試験のとき、隣と協力するのはまずいわけですけど、試験前にもっと協力して、何か作りだすというチャンスを少し作ってやった方が良いのではないかと思うんです。だから、さきほど大学のクルマづくりの話をしましたけど、彼らは国際的なレースに挑もうという取り組みなわけですけど、そういうことを少し、後ろから、それほど見ているということをはっきりさせないで、しかし、後押しをするような、そういう空気を作っていかないといけないかなと思いますね。
宅島:そういうところが価値創造というところにつながっていくんだろうなと思いますね。
藤原:そうするとね、それがソサイエティになり、あるいは国際間になり、グループの共有関係のできるベースになるんじゃないかという気が半分思い付きで話してますけど、そんな気がします。
今、上田さんが仰られた美術館で先生が子供を連れて説明をしているということも、いわば、先生がある種の少数のグループの子供を集めて、自分がやりたいことをやることを許容する社会ができているということですよね。すべての生徒を同等に扱わなくても良いという。ある程度、それを許容するという社会。そういうことを日本も少し、余裕をもたないといけないんじゃないかな。
司会:日本だと地域による美術館や博物館に触れる機会といった格差の話もありますが、決して、文化的教養は必ず美術館や博物館に行く必要があるわけではないと思うわけです。そこはその地域ごとに、どうやってそこでできる限りの取り組みとして文化的教養を育てていくか、という話をすることが重要で、その中で生み出されるのが多様性であったり、まったく異なる見方からのアイデアであったり、さっきのマグロを釣りに行く方法の話にもつながってくるのではと思います。
保科:美術館と言えば、アクセンチュア・イノベーション・ハブ東京では芸術関連のイベントを行うことがあります。プロの演奏家を招いたクラシックコンサートでは、単に演奏を楽しむだけではなく、演奏家と観客の皆さんに脳波測定器をつけてもらい、演奏と同時に脳波を可視化しました。クラシックに詳しい観客とそうではない観客の脳波を比べたところ、クラシック初心者の場合、難解な曲を聞いているときは寝ているのに近い脳波が見られました。しかし、作曲家がどういうときに、どんな気持ちでどう作った曲なのか解説された後に演奏を聞くと、同じ観客の脳波が、クラシックに詳しい観客や演奏家の脳波に近づくことが確認されました。
この時、どういう環境や状況でアーティストが作品を作り、何を伝えたいと思っていたのかが分かると、受け取る側の感覚が変わることを目の当たりにしました。芸術も技術も、背後にあるストーリーを伝えることで理解が促進されるのだと思います。
藤原:それはサイエンスも同じだと思っていて、数学でも物理でも、勉強するにしても、自然科学の勉強というのは、およそ人というものが見えないわけです。だけど数学者や物理学者もいろいろな人がいて、色々な顔を持っている。良い業績を上げているけど、人間的に嫌な奴もいるわけですよ。そういうことを知ると面白くなってくる。
阿部(MathWorks Japan。インダストリーマーケティング部長の阿部悟氏。宅島氏の付き添いとして参加していた):外野から失礼します。まさに、私もいろいろな国の人と話すんですけど、ビジネスの場でも文化的な話が必ず出てきます。今のクラシックもそうですし、歴史って身近な話のはずですけど、日本人で、例えば日本の歴史を上手く外国の方に語れる人って、どれくらいいるのかという気持ちがありますが、外国の方って結構、自分の国の歴史を理解しているんですよね。日本で歴史っていうと、鎌倉幕府がいつできたか、とかいった、入試をベースとしたような教育しかしないですし、数学や算数も同じだと思っています。あれも言ってみれば1つの教養のベースになるべきものだと思ってるのですが、そういう捉え方を社会もしていないし、教える側の立場の人もそういう理解もしていないと思います。そういうところを変えていくというのは1つのチャレンジですけど、大きな日本の国として進むべき方向性なのかなと思いますね。
外国の方たちは歴史を学ぶ上で、入試とは関係ないので、なんでそういうことが起こったの?、というのを考えるわけですし、先ほどのワークショップの話ではないですけど、そういう議論をする場を与えられるわけです。でも日本の教育は、そういう議論をする場を与えられていないですし、そもそも、そういう意見をいうことが、場合によっては、ここで変なことを言っちゃうと、あとでいじめられるみたいな、そういう社会風土というところもあり、議論をしないというところがあって、そういう社会的な付き合いをするという文化的な面と、学習のテーマとしての文化と、歴史にしても数学にしても、外国と比べるとかなりギャップがあるのかなという気がしますね。