過去のフッ化水素工場の事故が足かせに

実は、LG Displayの本拠地である韓国慶尚北道亀尾(グミ)市にある韓中合弁の化学工場が2012年、中国製フッ酸を運搬してきたタンクローリーから貯蔵タンクに移送する際に漏出する事故を起こして以降、韓国政府の環境規制が厳しくなり、事実上フッ化水素精製工場の建設が困難となっていた。韓国政府関係者は、環境規制を厳しくしすぎてしまったことを今回の日韓貿易紛争に直面し悔やんでいると伝えられている。

韓国半導体企業も、日本から高純度のフッ化水素が入手できる限り、韓国内でのフッ化水素および関連材料の国産化の必要性を感じなかったようだ。しかし、今回の件をきっかけにSK Hynixの親会社であるSK Holdings(傘下にSK Chemicals、SK Showa Denkoはじめ化学会社をいくつも抱えているSK財閥の中核企業)はじめいくつかの韓国企業がフッ化水素の製造参入あるいは増産を決めているが、すぐには需要を満たせないのが実情である。

Samsungは中国からの輸入を強化

Samsungについてだが、日本企業の海外精製工場や中国の化学企業からの輸入を進めようとしているようだ。そうした中国からの輸入分については、森田化学が一部資本参加している韓国内のフッ化水素製造メーカーで精製した後、納品するという方法が取られるという。こうして作られたフッ化水素の品質検査やデバイス試作による評価に時間を要し、さらには日本で精製したフッ化水素の輸出許可がもし先のばしになるようなことがあれば、一時的とはいえ、生産に支障をきたす可能性が出てくる。

そうなれば、フッ化水素の在庫が底をつき半導体メモリの生産ラインが操業停止に追い込まれ、幅広い材料、装置メーカーへの発注も止まり、ユーザーである最終製品メーカーの出荷計画にも支障をきたすことも想定する必要がでてくる。

しかし現状、韓国の半導体企業は、メモリバブルの崩壊によって製品在庫は山積みの状況となっており、フッ化水素が順調に調達できるようになるまで減産しても大きな支障とならない可能性もある。すでに90日分の非日本製材料の調達にめどがたったとの非公式情報もあり、このような最悪のシナリオが現実のものになる可能性は低いとみられる。ただし、韓国半導体企業各社は、本稿執筆時点で公式見解を一切発表しておらず、世に出回っている各社の情報はすべて噂か非公式なもので、真相は部外者にはわからない。

ちなみにディスプレイ産業でもフッ化水素を使用しているが、半導体向けほどの高純度である必要がなく、韓国国内あるいは日本以外で代替品を見つけることは、半導体の場合よりもはるかに容易である。

日本のフッ化水素メーカーに打撃

森田化学の社長である森田康夫氏は、1か月の輸出停止による損失は3億円分に相当することを明らかにして、「今回の件(経産省による輸出管理の厳格化)で日本企業のシェアが低下しかねない」との懸念を表明している。実際に、7月の貿易統計でも明らかになったように、約2か月にわたって、日本のフッ化水素メーカーは韓国向けの売り上げが立っていない状況で、今後、審査を無事に通過して、安定的に輸出できるかどうかは不透明さや不確実性が残っている状況となっている。

半導体製造装置・材料の国産化を急ぐ韓国政府

韓国の文大統領は、「韓国経済の体質を変え、新たに飛躍する契機にする」とし、対日依存から脱する方針を強調し、韓国での材料、部品・製造装置開発に多額の補助金を支給することを決定。同国の李首相が8月28日付けで、今後3年間で4400億円以上の国費を投じて素材・部品・製造装置の国産化を進める方針を発表している。

こうした動きは韓国だけに留まらず、半導体工場を保有する国や地域では、材料や装置のサプライチェーンの見直しや海外企業の誘致を含め、自国内で調達する機運が高まるだろう。とりわけ、中国は「製造2025」 の趣旨に沿って、半導体デバイスだけではなく、材料も装置も国産化を急いでいる。すでに、中国には、高純度半導体材料メーカーや先端半導体装置メーカーも誕生している。米Lam Researchおよび米Applied Materials(AMAT)出身者が創業した中AMECは、TSMCや中国の長江存儲科技(YMTC)の先端ライン向けのエッチング装置を受注したとも伝えられている。

日本の製造装置・材料企業の空洞化・弱体化を懸念

一方、日本勢はこのままの状況が続けば国際競争力が低下することは目に見えている。そこで森田化学では、年内にも中国浙江省の日中合弁企業に、設備投資費100億円を折半出資し、高純度フッ化水素の生産を始めることを決めたとしている。半導体生産が韓国から中国へシフトするのを見越して、2年前から進めていた計画だというが、需要に応じて韓国へも輸出するという。

東京応化工業もすでに韓国仁川にレジスト製造工場を持っているが、韓国内でのレジスト増産体制を敷きEUVレジストも韓国で製造開始する方向で検討中だという。

大手の住友化学は、韓国および中国で合弁事業を展開し、半導体向け高純度アンモニアはじめ各種薬液、レジスト、カラーフィルタ、機能性フィルムなどを現地生産している。富士フイルムはEUVレジスト開発でJSRに後れを取っているが、いずれは研究パートナーのASMLやベルギーimecに近い同社のベルギー子会社(あるいはJSR同様にimecとの合弁会社)で製造する可能性が高い。

日本政府による輸出管理が今後も強化されていくようであれば、韓国勢が代替品を海外あるいは韓国内で調達できるようになった時点で、もはや日本企業に用はない、ということになる。これは、日本の素材メーカーが弱体化し、海外企業(特に中国勢)にビジネスチャンスが生まれるということである。こうなると、先端半導体企業からの最新情報の入手が困難となり、日本の装置材料メーカー各社は先端製品の開発に支障をきたすことになりかねない。

今回の経産省の政策によって、日本の半導体材料や製造装置企業の国外への製造移管による日本国内における空洞化や弱体化は懸念されるところである。「韓国や中国にできるはずはない」と高をくくっていると、半導体、ディスプレイに次いで、半導体製造装置・材料までもいつか来た道を歩むことになるかもしれない。

ウェハメーカー大手SUMCOの橋本会長は韓国に対する輸出管理強化について、「(シリコンウェハメーカーにも)間接的に影響がある」との見方を示し、米中貿易摩擦の影響も含め「何一つプラスなことはない」とBlombergによるインタビューで述べているほか、SEMIも日韓両政府に懸念を示すなど、半導体製造装置・材料業界全体で、今後の動向を注視する状況となっていると言えるだろう。

(2019年8月30日追記)日本政府がフッ化水素の輸出許可 - 韓国情報

本稿掲載と前後する8月30日午前、中央日報日本語電子版をはじめとする複数のマスコミが韓国政府産業通商資源部からの情報として「ステラケミファからSamsung向けのフッ化水素の輸出を日本政府が許可した」と速報を出した。

しかし、中央日報は「今回、日本がフッ化水素の輸出を承認したのは(日本政府の)一種の『広報戦』と解釈される。日本の輸出規制が政治的報復措置ではなく、世界貿易機関規則にも反していない点を強調しようとする狙いが根底にある」と分析している。韓国半導体業界が日本産フッ化水素の代替案を模索することにより「売上減の脅威を感じた日本企業が輸出認可を求めた点も作用した」とも分析しているほか、「材料の輸出が1件追加で許可されたからといって不確実性が解消されたわけではない」との韓国半導体関係者の談話も紹介している。

ステラケミファは「7月4日以降の申請分の許可はまだ1件も出ておらず、必然的に出荷量は落ちている」と㋇29日付けの朝日新聞電子版の取材に答えており、今回の韓国発のニュースは、同社にとっても寝耳に水の情報であろう。

フッ化水素の輸出許可により、3種類の材料の輸出管理強化により懸念されていたSamsungの半導体製造ラインの稼働停止は当面回避される可能性が高まったが、対韓輸出管理強化やホワイト国(グループA)除外そのものを日本政府がとりやめたわけではないので、今回のフッ化水素の輸出許可によって、簡単に日韓関係が改善するようなことはなく、韓国政府の材料・部品・装置国産化推進の方針も変わらないだろう。

編集注:2019年8月30日に、最後の章を加筆させていただきました。