フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


石井一家の情熱

1947年 (昭和22) に写植機の製造を再開し、大阪から届いた機械を再組み立てするようになってから、石井家ではふたたび一家をあげてその製作に協力するようになっていた。夫人のいくは外まわりの営業、圭吉は茂吉とともに成増の東京印書館工場に通って機械の組み立て、裕子は文字盤づくりと光源電球のタングステン巻き。だれがなにをやるのか、とくに話し合って決めたわけではないが、自然にそれぞれの受け持ち範囲が定まるほど、写植機に対する石井一家の熱意はおおきなものだった。

なかでも、裕子の活躍はめざましかった。敗戦の年の春に共立女子専門学校家政科を卒業した裕子は、もともとは学校の先生になるつもりだった。それが戦災に遭ってむずかしくなり、家の手伝いをするようになっていた。

  • 1948年 (昭和23)の石井茂吉と三女・裕子。『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.183

    1948年 (昭和23)の石井茂吉と三女・裕子。『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.183

〈卒業したのが昭和20年3月でしたが、その年の4月13日に空襲で自宅も工場も全部焼けてしまいました。家政科専攻で私、学校の先生になるつもりでいました。それが戦災に遭ったために不可能になり、家の手伝いをするようになってしまいました。焼跡で自給自足の生活を3年位いたしました。 (中略) 昭和20年は焼跡の仕末 (ママ) などでほとんど仕事は出来ませんでしたが、21年に社員2人が復員してきて、仕事を再開したのはそれ以後でした。それに母や私が手伝っていましたから、石井写植機研究所に入ったのはその年ということになります。〉

これは1981年の『印刷界』に掲載された、石井裕子のインタビューである。[注1]

裕子の担当範囲はしだいに広がり、やがてはいくに代わって一人四役をこなすようになっていくが、それはまだ後の話だ。

いっぽうで圭吉は、戦後初出荷を果たした1947年 (昭和22) の暮れから、その過労がたたったか胸部疾患が再発し、床に伏せるようになってしまった。[注2]

追いつめられる茂吉

1948年 (昭和23) に入ると、写植機の分解、整備、再組み立ての作業は軌道に乗り、ピッチも上がってきた。しかし納期はすでに、予定より1年遅れている。納品できなければ、金は入らない。作業の遅れは必然的に、写真植字機研究所の財政を圧迫してきた。

自分が機械を送れば金が入るとおもっている信夫からは、きびしい送金の催促がくる。つぎの製造を進めるには資金が必要だから、それもむりもない。しかし研究所にも金はない。しかも急加速のインフレで、諸資材の価格が見る間に上がっていく。資材の値上がり分を吸収できなくて、1台も納品しないうちに値上げせざるをえない事態にもなった。

こうなると、茂吉は注文先と信夫とのあいだで板ばさみである。

信夫に送金しなくては、つぎの機械が届かない。なんとか手立てが必要だが、うまい方法も見つからない。そもそも金の工面は茂吉の苦手分野なのだ。茂吉はほとほと困り果ててしまった。

これを見かねたのが、写植機組み立ての応援部隊として工場に通っていた大日本印刷の高相悌一だった。高相は茂吉に、「とりあえず他社に1台売ってはいかがですか」と持ちかけた。しかし生真面目な茂吉はその話をはねのけた。

「高相くん、数多くの注文を受け、前渡金をもらっておいて、1年近くも納期が遅れているんだ。その注文先に写植機を納めきれていないというのに、どうして順番を変えて他社へ回せますか」

しかしじつは、高相のところにはすでに写植機を買いたいという相談がきていた。ときはすこしさかのぼり、1947年 (昭和22) 12月のことだった。大日本印刷写植係の責任者である高相は、同社営業の竹内から、協力会社である東京工芸印刷の大石和寿専務を紹介された。大石はもと細川活版所 [注3] に勤務していたひとで、印刷技術の導入に熱心だった。そして写植機を手に入れたいとかんがえ、写研をたずねたのだが、「すでに多数の注文を受けているので、納入は数カ月以上先になる」と言われてしまったのだという。

「とてもそんなに待っていられない」とかんがえた大石は、高相から茂吉に頼んでもらえないかと相談にきたのだ。

その熱心さに押され、また、「なんとか写植界を発展させたい」「多少でも自分の顔をきかせたい」という思いから、高相は茂吉に頼みに行ったが、まんまと茂吉に断られてしまったのだった。

高相は大石に、注文に割りこむことはできないと伝えたが、大石はあきらめない。その熱意と、このころ資金難に陥っていた写研が、しかし大阪に送金しなくてはあらたな機械の製造を進めることができず、東京に機械を送ることもできないと信夫から迫られていることは高相の耳にも入っていた。

だから高相は、「とりあえず1台、他社に売ってはどうですか」と茂吉に再三、進言しに行ったのだった。[注4]

強引な屁理屈

かたくなな茂吉の態度に、これではらちが明かないとかんがえた高相は、もう一度説得をこころみた。

「でも先生、森澤さんに最初に頼んだのは50台でしょう。前金をもらった機械は30台とのことですから、残りの20台はだれに売ってもよいはずですよね。その20台のうちの1台がちょっと早めに完成したとかんがえればよいのではないですか。それを他社に売って現金を得て、その金を大阪に送って製造を進めてもらい、機械を東京に送らせれば、一挙両得ではないですか」

強引な屁理屈ではあったが、筋は通っていなくもない。いずれにしても、大阪に送る金がなくては写植機が出荷できないのだから、茂吉とて背に腹は代えられなかった。

説得された茂吉のもとを、高相は大石とたずねた。戦後のインフレのため、製造再開直後の6万円から、写植機の価格は20万円にまで上がっていた。[注5] 現金でその全額を支払い、契約書を手にして写研を出た大石は、高相とともに喜びあった。1947年 (昭和22) の12月も20日をすぎたころのことだった。

茂吉はすぐにその金を全額信夫に送り、この局面をなんとか乗り越えた。そして1948年 (昭和23) 2月、契約どおり東京印刷工芸に写植機を1台納品したのだった。

しかしこのとき、困ったことが起きた。茂吉は契約どおり納入してくれたものの、技術者がいなかったのだ。技術者がいなければ、写植機は宝の持ち腐れになりかねない。茂吉はいつも写植機を納入する際、技術者の心配をしていた。高相は契約結びたさに、おもわず「技術者はおりますから」と言ってしまったが、自社である大日本印刷からまわすわけにもいかず、かといって自分が行くこともできずに数日が経った。茂吉にも「います」と言い切ってしまった手前、頼みに行くこともできなかった。

困り果てていたところに、図書印刷の佐治為男が引き受けてくれて、3月から東京工芸印刷の機械が活動を開始した。やがて高相の紹介で上川研二や妹の高相ヨシ子が入社し、活躍した。しかし高相は後年、まじめな茂吉に裏取引のようなことをさせてしまったと悔いた。

難局を切り抜けることができたものの、茂吉にとって、取引にうしろめたさを抱いたのは、後にも先にもこのときだけであった。[注6]

二度の移転

1948年 (昭和23) 6月ごろになると、最初の予約注文分30台の出荷が一段落した。東京印書館の借棟は、すでに手ぜまになっていた。茂吉は、この仮工場を引き払い、大塚にほど近い巣鴨新田にあった井沢精機製作所の工場の一部を借りて、移転した。

当時まだ茂吉の家には電話がなかった。だから、自宅のある大塚からすこしでも連絡に便利な近辺を選んだのである。

移転であわただしくしていたおり、愛媛新聞社から写植機のカタログ取り寄せと注文希望の問い合わせが茂吉のもとにきた。しかしカタログはまだできておらず、注文過剰の状態もつづいており、とてもではないが新規注文を受けられる状態ではなかった。

「新規注文には応じ兼ねる事情なのですが、植字機使用状況ご視察のご希望がございましたら、先へお立ち寄りくだされば結構と存じます」 そうして茂吉が信夫の大阪工場と、おなじく大阪のオクノ印刷所の住所を記した手紙の控えが残っている (写研所蔵) 。

しかし井沢精機製作所での仮住まいは長くはなかった。大塚の茂吉の敷地の一部は、戦後、義弟が専務をしていた大和ポンプに貸していたが、この会社が業績不振で倒産したのだ。茂吉はすぐにその建物を買い取り、もとの場所すなわち大塚に写真植字機研究所を復帰させた。

  • 大塚の写真植字機研究所の敷地にあった大和ポンプの広告。『防災』1(2)、東京連合防火協会、1948年2月 p.34 国立国会図書館デジタルコレクション<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/2805141">https://dl.ndl.go.jp/pid/2805141</a> (参照 2026-02-28)

    大塚の写真植字機研究所の敷地にあった大和ポンプの広告。『防災』1(2)、東京連合防火協会、1948年2月 p.34 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2805141 (参照 2026-02-28)

1年という短い期間で二度の引っ越しをすることになったが、荷物は比較的おおきなものでもボール盤1台だけ、あとは小物の機具や道具しかなかったので、移転も身軽なものだった。そしてこのとき、大和ポンプの社員だった布施茂や飯塚達男が写真植字機研究所のメンバーに加わった。布施はのちに茂吉に「茂ちゃん」と呼ばれ、写真植字機研究所技術部の中心的存在となっていく人物である。

このころには、最初の1年の目標にしていた50台の出荷がようやく終わり、つぎの50台に入っていた。大阪工場から届く機械も初期ほどひどくはなくなり、茂吉が手をかける時間も短くなってきた。順調な先行きが、ようやく見えてきた。[注7]

(つづく)

※本連載は隔週更新ですが、次回はお休みとなります。
 次は6月23日更新予定です。

[注1] 「対談 組版ソフト開発に全力――生命は“生きた”文字作り 写植も電子全盛の時代」話す人:写研 取締役社長 石井裕子、聞く人:日本印刷新聞社 社長 栗原浩 『印刷界 (335)』1981年10月号、日本印刷新聞社、1981 pp.46-47

[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.188

[注3] 細川活版所は1885年 (明治18) 4月18日、東京府京橋区鎗屋街9番地に、初代細川芳之助を社主として「必昇社」の名で創業された活版印刷所。9年あとの1894年 (明治27) に「細川活版所」に改称し、その約40年後に会社組織となった。『細川活版所100年の歩み』細川活版所、1986年9月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11951972 (参照 2026-02-21) p.2

[注4] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.189、高相悌一「ひと言おわびを――」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.110-113

[注5] 写真植字機の価格について、本連載 第83回で「1台30万円」と書いたが、ここでは20万円としているので、矛盾しているではないかとおもわれるかもしれない。第83回の「30万円」は1948年 (昭和23) 9月のことである。この「30万円」は当時の見積書に記載されていた金額なので、まちがいないとおもわれる。
いっぽう今回は、1947年 (昭和22) 12月の出来事で、その9カ月前の価格を指す。急激な物価上昇が起きていたため、ごく短期間で価格が上がった可能性も否めない。このためここでは、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.190に記載のとおり「20万円」と書いた。

[注6] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.189-190、高相悌一「ひと言おわびを――」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.110-113

[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.190-191、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.52

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
「対談 組版ソフト開発に全力――生命は“生きた”文字作り 写植も電子全盛時代」話す人:写研 取締役社長 石井裕子、聞く人:日本印刷新聞社 社長 栗原浩 『印刷界 (335)』1981年10月号、日本印刷新聞社、1981
『細川活版所100年の歩み』細川活版所、1986年9月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11951972

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ