「AI新興の挫折」という業界の懸念が現実になった。Inflection AIが「Pi」の開発を止め、「AIスタジオ」事業に傾注する。ユニークな対話スタイルで、ChatGPTに対抗できるサービスとして今後の成長が期待されていたが、なぜ早々の撤退を決断したのか。→過去の「シリコンバレー101」の回はこちらを参照。

ムスタファ・スレイマン氏がAI製品研究の責任者に

3月19日に、MicrosoftがInflection AIの創業CEOであるムスタファ・スレイマン氏をAI製品研究の責任者にすると発表した。

一般的にはヘッドハンティングのニュースのように受け止められているが、この発表は新興AI企業に激震をもたらした。ユニークな対話型AIで将来の成長が期待され、資金集めも順調だったInflectionが、力尽きる前に市場から撤退する判断を下したためである。

「AI新興の挫折」という業界の懸念が現実化し、この2週間で生成AIの競争は新たな局面に突入した。

以下は、Microsoftのスレイマン氏に関する発表の前後に起こったAI関連の出来事である。

  • Stability AIの創業者エマド・モスターク氏が同社のCEOおよび取締役を辞任
  • 3月21日に掲示板型ソーシャルメディアのRedditがニューヨーク証券取引所へ上場、2024年の大型IPO(新規株式公開)の1つとして注目を集めた
  • AppleがiPhoneに搭載する対話型AIに関してGoogleと交渉しているとBloombergが報道

Inflection AIは、Google DeepMindの共同創業者であるスレイマン氏、「AlphaGo Zero」の主要研究者の1人であるカレン・シモニャン氏、LinkedInの共同創業者リード・ホフマン氏らによって2022年に設立された。

対話型AI「Pi」

AI新興の中でもキラ星の面子であり、ビル・ゲイツ氏、エリック・シュミット氏、Microsoftの支援を受け、昨年だけで13億ドルもの資金を調達し、昨年5月に対話型AI「Pi」(Personal Intelligence)をリリースした。

  • ムスタファ・スレイマン氏。DeepMindの共同創業者で、デミス・ハサビス氏と並んでDeepMindの技術的なリーダーだった。AIを用いて人々の生活を改善することを追求している。

    ムスタファ・スレイマン氏。DeepMindの共同創業者で、デミス・ハサビス氏と並んでDeepMindの技術的なリーダーだった。AIを用いて人々の生活を改善することを追求している。

Piは、ユーザーの個性やニーズに合わせてカスタマイズされたサービスを提供することを目的として開発された。実際に試したPiとの対話体験は好印象だった。ChatGPT、GeminiやClaudeと比べて共感性が高く、Piによるサポートは協力的で、今後のオンデバイスAIの発展を見据えると、Piは顧客基盤を広げる潜在能力を持つと感じた。

Piに課題がなかったわけではない。たとえば、貧弱なコンテキストウィンドウが挙げられていた。データトレーニングのコストも上昇している。数年前だったらRedditはAI関連株とは見なされなかっただろう。しかし、今LLM(大規模言語モデル)を手がける新興企業は、Redditのような貴重なトレーニングデータを持つ企業にライセンス料を支払わなければならない。

だが、Inflection AIはそうした課題を克服できる資金と開発力を持っていたはずである。それにも関わらず、同社は早々にPiで競争することをあきらめてしまった。

  • Inflection AIは、昨年12月にPiのAndroidアプリ、今年3月にMac用のデスクトップ・アプリとiMessageアプリを追加して13プラットフォームに対応するなど、順調に製品を展開していた。

    Inflection AIは、昨年12月にPiのAndroidアプリ、今年3月にMac用のデスクトップ・アプリとiMessageアプリを追加して13プラットフォームに対応するなど、順調に製品を展開していた。

司法省や連邦取引委員会(FTC)が巨大ハイテク企業への力の集中に監視の目を光らせる中、GAFAMは買収で新市場に参入する拡大戦略を採りづらい状況にある。これはMicrosoftによるInflection AI買収ではない。

しかし、スレイマン氏とともにカレン・シモニャン氏がMicrosoftに加わる。また、InflectionはMicrosoftとパートナーシップを結び、今後はLLMのトレーニングや微調整、テストのための「AIスタジオ」事業に傾注するため、事実上の吸収と見なされている。

スレイマン氏がPiを放棄した理由

では、なぜスレイマン氏らはPiを放棄したのだろうか。3月18日に、レックス・フリードマン氏によるOpenAIのサム・アルトマンCEOのインタビューが公開された。GPT-5に触れたことが話題になったインタビューだが、個人的には7兆ドル規模のAIチップ・プロジェクトやAGI(汎用人工知能)について語っている部分が興味深いと感じた。

アルトマン氏は、将来的に計算パワーが私たちの暮らしや社会に不可欠な資源になると見ている。また、企業や国家間の競争力を左右し、経済価値や戦略的資産にも関わる点から、計算能力を通貨のように捉える視点も示した。

この「新たな通貨」を巡る競争はすでに始まっている。2023年にAI新興企業に約500億ドルもの投資がなされたが、そうした資金流入にも関わらず、計算パワーへのアクセスは限られている。

Inflection AIのように優秀なチームで、何十億ドルもの調達に成功している企業でも、新たな通貨を持つ先行者に追随するのに苦労している。

Piの挫折で、これまで潜在的であった懸念が現実になった。ChatGPTやGeminiなどが伸びるほど、小規模な企業が競争に置いていかれるリスクは高まる。今は牽引力のあるAnthropicやCohereといった有力なAI新興企業であっても、いずれInflectionと同じ運命を辿る可能性がある。

AIのような革新的な技術において、技術や人材の集中は望ましいことではない。AIがさまざまな産業や職種に影響を及ぼす準備が進む中、10社に満たない営利企業がAIに大きな影響力を持つことへの懸念が深まっている。

そうした中で、Stability AIの創業者エマド・モスターク氏が「非中央集権的なAIを追求するため」という理由でCEOと取締役を辞任した。

Stability AIは、画像や動画のAI生成モデルを通じてオープンソースAIの成長に重要な役割を果たしてきた。2022年10月に10億ドルの評価額で約1億ドルの資金を調達し、ユニコーン企業となったが、生成AIブームに伴う競争激化から投資家の圧力を受け、昨年末には売却の可能性が報じられた

モスターク氏は辞任発表後にXで、「AIで最も重要なのはGPUではなく、調整とガバナンスだ。手遅れになる前にAIを分散化しなければならない」と述べている。