【青春座談会】 我らが母校・嘉穂高等学校(福岡県)高校時代の思い出を今一度

作家・五木寛之氏の大作『青春の門』の舞台になった福岡県立嘉穂高等学校。かつて筑豊炭田と呼ばれた炭鉱街の飯塚市に校舎を置き、経済人も数多く輩出した同校の魅力について、グローバル・システム・クリエイト社長の田中寛利氏、富士通元社長・会長の田中達也氏、双日九州会長の香田篤志氏、日鉄物産取締役相談役の中村真一氏が語り合った。

 応援団員による〝シゴキ〟

 ─ 嘉穂高校は文武両道で知られています。今回は同校の卒業生で、神戸製鋼所を経て現在は広報PR・危機対応コンサルタントとして山見インテグレーター代表取締役の山見博康さんのご紹介で皆さんに集まっていただきました。

 関東地区同窓会の会長を務めているグローバル・システム・クリエイト社長の田中寛利さん(以下、田中寛)、富士通元社長・会長を歴任した後、複数企業の社外取締役を務める田中達也さん(以下、田中達)、双日九州会長の香田篤志さん、日鉄物産取締役相談役の中村真一さんです。

 まず年長者である田中寛さんの高校時代の思い出を聞かせてください。

田中①

グローバル・システム・クリエイト社長 田中寛利

 田中寛 わたしが入学したのは1971年。高校は炭鉱の街として栄えた飯塚市内にあり、校舎も炭鉱の跡地にありました。高校に入学した最初の印象は「なんて恐ろしい学校なんだろう」(笑)。

 入学式とクラスでのオリエンテーションが終わると、突然、応援団が教室の中に入ってくる。何をするのかと思うと「正座!」と怒鳴り声をあげて次に「黙想!」と。皆、何が何だか分からないという表情でしたね。それで数分間、目を閉じて黙想をさせられました。

 ─ 嘉穂高校は共学です。女子生徒もいたのですよね。

 田中寛 ええ。女子たちも訳が分からないという感じでした。

 ─ とんでもない高校に入ったという印象でしたか?

 田中寛 いえ、最初は「面白いな」という気持ちになりました。高校という場所では、こういうことをするのかとね。その様子を見ていた先生も別に注意などしませんでした。それが校風なのでしょうね。我々も事前の知識はなく、高校生活がどんなものか知りませんでしたからね。非常に興味深かったですね。  

 ただ、入学してからの〝躾〟はそれで終わりません。全学年が体育館に集められ、そこで応援の練習です。校歌や応援歌などを徹底的に教え込まれました。これも先生に言われてやっているのではなく、応援団員が自主的にやっていました。

 これも嘉穂高校の校風だと。わたしのときは団員が3人で、みっちり指導を受けました。3年生の風貌は1年生から見れば、独特な雰囲気があるものでしたね。

 田中達 これは「シゴキ」と呼ばれていました。体育館に1年生全員が集められ、皆が正座をさせられたまま応援団の校歌を聞くのです。しかも、1回だけ応援団が歌って「もう覚えただろ?」と。そんなこと、できるわけないですよね(笑)。

田中②

富士通元社長・田中達也

 入学して10日間くらい、新入生はシゴかれ続けるのです。もちろん、覚えていない生徒は正座を続けさせられます。ですから自然に覚えてしまった感じでした。今思えば、厳しくも温かい指導でした。

 中村 応援団による応援練習の一環ということでしたけどね。

 香田 こんなことを現役生が知ったら驚くでしょうね。

 田中達 さすがに今はやっていませんよ。だけど当時は校歌や応援歌、逍遥歌など、耳に染み付くまで何度も繰り返し聞かされ覚えさせられました。

 学区制の変更で定員割れも

 ─ 中には逃げてしまう生徒はいなかったのですか。

 田中寛 いなかったですよ。

 香田 逃げても捕まりますよ。学校の近くにある商店街の裏で隠れていても連れ戻された生徒がいたほどでしたからね。「お前、何しよっと?」とね(笑)。

 ─ そんな田中達さんはどういう印象だったのですか?

 田中達 わたしの2学年上の中学校時代の先輩が嘉穂高校で応援団長を務めていました。ですから、シゴキの存在も聞いていましたし、それこそ「応援団に入れ」と言われました。でも、わたしは陸上部志望。応援団からは逃げ続けましたよ。ある日、団員の1人につかまって「入らんやったら覚えとけよ」と(笑)。

 入学早々は、とにかく先輩から逃げ続ける日々でしたね。

 香田 応援団の団長などに当時は何も言えませんよね。

 ─ 香田さんのイメージは。

 香田 わたしの家は学校の前にありました。駄菓子屋を営んでいたんです。ですから、嘉穂高校の学生は、うちの駄菓子屋で買い食いをして帰っていました。飯塚市のような狭いエリアで物心ついたときから嘉穂高校が目の前にありましたから、自然と自分が進む高校は嘉穂高校だと思い込んでいました。

香田

双日九州会長・香田篤志

 中学時代はバスケット部に所属しており、よく嘉穂高校のバスケット部に呼ばれて地獄の練習に行かされました。まるで嘉穂高校バスケ部の下部組織のような扱いでしたけどね(笑)。

 練習も厳しくて先輩からは「嘉穂高校に来い!」と言われましたので、余計にその思いが当たり前になったと。実はわたしと田中達さんは同級生で、26期の我々のときは定員割れになっていたんですよ。

 田中達 県立高校の学区の割り当てが変わったんです。既存の学区がさらに広がって、より広いエリアから受験できるようになったんです。それまでは受験できる高校が決まっていたのですが、このときの学区制の変更で、それが撤廃されたと。

 香田 それなりに高校のレベルも高かったので学生が難しいと思ったのでしょう。受験を敬遠したんです。その結果、定員割れになったわけですね。

 田中寛 ですから、中村さんを含めた27期生以降は極めて優秀な人たちばかりですよ。

 中村 いやいや、それはありませんよ(笑)。

 田中寛 26回生が底辺ではないかと言われていました(笑)。

 香田 でも定員割れは少し寂しかったですね。わたしたちのときは補欠の学生もとりましたからね。それでも1学年に10クラスはありましたね。

 恩師を慕う卒業生たち

 ─ 中村さんは田中寛さんの学年と3年違いで、田中達さんと香田さんと2年違い。当時も10クラスあったのですか。

 中村 はい、ありましたよ。この場にいるのが先輩ばかりで頭が上がりませんよ(笑)。

 ─ 中村さんのお父さんは嘉穂高校の教師でしたね。

 田中寛 英語の先生でした。

 香田 わたしたちのときも英語を教えてもらいました。

 中村 さすがに、わたしは父には習っていないですが(笑)。

中村真一

日鉄物産取締役相談役・中村真一

 香田 先生の名前が一郎でしたので、「いっちゃん」とあだ名で呼んでいましたよ。

 ─ 中村さんの進学理由は。

 中村 やはり父親の影響ですね。教師だった父のもとにはお盆や正月になると、必ず卒業生が挨拶に来るんです。次から次へとやって来ては、父とお酒を飲んでいました。

 飯塚市内で何回か引っ越ししたのですが、その度に柔道部の学生が手伝いに来てくれました。母が山ほどおにぎりをつくって食べさせていましたね。柔道部の学生ですから、とにかくすごい勢いでバクバク食べていましたよ(笑)。

 そんな姿を小さい頃から見てきましたし、小学生の頃は父と一緒に嘉穂高校の「寒稽古」にも参加していました。1月の大寒の時期の土・日曜を含めた10日間、午前7時から稽古をするもので、真冬の暗い中で白い息を吐きながら練習に励みました。嘉穂高校に進学しないといけないという感じでしたね。

 ─ 学生数はどのくらい?

 中村 1学年が約450人でしたので、全校生徒は約1350人ほどでしたね。

 香田 ですから、世間が狭く感じますね。わたしと中村君は幼稚園から小学校、中学校、高校と全て一緒でしたからね。

 ─ 高校生活自体にはどんな感想を持っていますか。

 香田 面白かったね。  

 田中達 本当に面白かった。

 中村 一生の思い出ですよ。

 田中寛 わたしの場合は先生の思い出よりも地域への思い入れが強いですね。わたしは嘉穂郡桂川町の生まれですが、そこに住んでいると高校は嘉穂高校しかないという印象が強かった。

 嘉穂高校に行かないと、その先がないといったイメージです。実際、学生時代だけではなく、卒業してからも交流が続いている学校ということで、地域の方々にも誇りに思っていただけているのではないでしょうか。

 田中達 わたしの父も旧制・嘉穂中学校の出身でしたし、叔父2人も同じでした。我が家では、自然と他の選択肢がないような雰囲気がありましたね。

 香田 皆で集まると「大学はどこ?」という話はあまりなく、嘉穂高校出身というだけで話が盛り上がって終わるんですよ。商売人の街でしたから子どもたちは街に育てられていましたね。いたずらをすると真剣に八百屋のおじさんに怒られました。

 田中寛 当社はシステム開発会社で、最近も仕事で飯塚市役所を訪れる機会がありました。現在の市長も前市長も嘉穂高校の出身者。市役所の経済部に行くと、そこにも後輩がたくさんいる。

 わたしが伺うと突然、職員の方々が起立して挨拶するんです。後輩が先輩を慕ってくれる関係は自然とできていますね。

 柔剣道でインターハイ同時制覇

 ─ それは炭鉱の街ならではの特長とも言えますか。

 田中寛 そうかもしれませんが、我々のときは、むしろ炭鉱が閉山になってからしばらく経った時期になります。学校の前の河原の向こうにボタ山(石炭の採掘に伴う坑道掘削などで生じた岩石廃棄物が集積してできた地形)があったのですが、当時は草木一本生えていなかった。

 ただ、まだまだ商店街は賑やかで飲み屋もたくさんありました。映画館もありましたし、自然と学校と街の喧騒が一緒になった感じがするところでしたね。

 香田 飯塚市内には「長崎街道」という幹線があり、「シュガーロード」と呼ばれています。江戸時代の鎖国政策の中、長崎の出島から大量の砂糖がこの道を通って佐賀経由で小倉に向けて運ばれていたのです。

 その結果、街道の沿道には菓子屋がたくさん軒を連ねました。和菓子の「ひよ子」や「千鳥饅頭」などは飯塚市が発祥の地。炭鉱で羽振りが良かったのでしょうね。

 ─ 炭鉱の歴史を感じることができたのですね。中村さんは全日本柔道連盟の会長も務めたほどの柔道家でしたね。

 中村 実は、小さい頃から柔道はやっていたのですが、高校時代はやっていなかったのです。なぜなら、当時の嘉穂高校の柔道部はめちゃくちゃ強くて、わたしが1年生のときにインターハイ2連覇を成し遂げたほど。1974年は剣道部もインターハイで優勝しています。

 嘉穂高校はインターハイで柔剣道同時制覇をした唯一の高校で、全国でも同時制覇を達成した高校は未だに存在しないほどです。

 ─ 記録は破られず?

 田中寛 はい。わたしのときも柔道部はインターハイで優勝していたと思います。

 香田 インターハイはわたしたちの代でも優勝していますよ。

 ─ なぜ中村さんは柔道部に入らなかったのですか。

 中村 いや、実力が違う……。野球も強かったですし、おまけにブラスバンド(吹奏楽部)も全国大会に出場して金賞を何度も獲っていました。ですから、わたしは先輩や同期の応援でした。

 ただその後、柔道関係の仕事をするようになると、嘉穂高校出身というだけで柔道界の方々はフレンドリーに接してくれます。しかも、リスペクトの念を持って接していただける。

 大いにその場は盛り上がるのですが、最後に「わたしは確かに嘉穂高にいましたが、事情があって柔道部には在籍していませんでした」というのがオチです(笑)。それをいろいろなところで説明してきたので大分理解してもらえてきましたけどね。

 ─ 田中寛さんは?

 田中寛 わたしは帰宅部(笑)。入学して最初の1カ月間、部活を選ぶ期間があって体操部に入ろうかと思ったのですがやめました。実は同じクラスで仲良くなった同級生に酒屋の息子がいて、学校帰りに「うちに寄って行け」と言うので、彼のお店に立ち寄ってはお酒を飲んでいました。もちろん、今はNGですよ(笑)。

 同級生からは「何を飲んでもいいぞ」と。カラオケしながら飲んでいましたね。帰宅すると親から「酒くさっ」と言われたこともありました(笑)。

 ─ 寛容だったんですね。

 香田 今は絶対NGですけど、当時は、この日は飲んでいいよという日がありましたよね。

 田中寛 体育祭の日ですよね。わたしのときは同級生の離れに集まって朝まで飲んでいました。

 「攻撃は最大の防御なり」

 ─ どんちゃん騒ぎですね。田中達さんは何部でしたか。

 田中達 わたしはクラブ難民でした(笑)。先ほど申し上げた通り、中学は陸上部だったのですが、香田君は宿敵でした。

 ─ 先ほど香田さんはバスケ部だと言っていましたが。

 香田 ええ。ヘルプで陸上部のお手伝いもしていたんです。

 田中達 わたしは中長距離でした。高校でも陸上部に入ろうとして門を叩いたのですが、当時は陸上部の部員数が少なく、駅伝などは無理かなと諦めました。ただ足は速かったのでサッカー部に連れていかれて、ユニフォームを渡されて一緒に練習させられました。

 他にも音楽で音階を歌ったら音楽部でコーラスをやれとも言われました。

 ─ 次は歌ですか(笑)。

 田中達 1年間だけ経験しました。そのときは自分でギターを弾いて歌う方好きで。でもコーラス部では良い経験をさせてもらいました。コンクールに出場したり、皆でハモることができたときは感動しました。でも最終的には難民状態を続けて自由を選びました(笑)。

 ─ バスケ部に入った香田さんの部活動生活は。

 香田 わたしのバスケ部入部は問答無用です。冒頭の山見さんも10歳年上のバスケ部でした。バスケ部も厳しかったです。中学校のバスケ部のコーチはコンニャク屋のおじさんで、高校時代は漬物屋のおじさんがコーチ。

 学校の先生に習ったことはなく、コーチ陣はOBです。合宿は体育館に泊まるのですが、お酒を飲んで夜中に集まって来たOBと試合をしましたからね。

 ─ 夜中に酔っ払いのOBと試合をしたのですか。

 香田 ええ、すごいですよね。

 田中達 わたしの妻が嘉穂高校の同級生で、ブラスバンドに所属していました。彼女が言うには、ブラスバンドも指導者はOB。東京芸術大学に進学した人もいるそうですよ。先生よりも先輩が指導する。それも厳しい指導を。でも強くなるんです。

 ─ 質実剛健を地で行くようなエピソードですね。

 田中達 高校の正門を通ると石碑があるのですが、そこには「攻撃は最大の防御なり」と書いてありますからね。

 ─ そんな嘉穂高校は数多くの経済人を輩出しています。経済団体連合会(当時、現経団連)副会長で日本航空会長を歴任した花村仁八郎さんをはじめ、ロイヤルホスト(現ロイヤルホールディングス)創業者の江頭匡一さん、東レ社長・会長や経団連副会長を務めた前田勝之助さん、日航再生を手掛けた稲盛和夫さんが創業した京セラ社長・会長を務めた久芳徹夫さんなどがいらっしゃいます。

 田中寛 おっしゃる通りですね。でもなぜ嘉穂高校から輩出するのかは分かりませんね。

 香田 有名人はたくさんいますけど理由は分からないなあ。

 中村 質実剛健の校風が影響したのかもしれませんね。

 ─ ちなみに現役時代、ガールフレンドはいたのですか。 〈全員無言で苦笑い。1人は×印のジェスチャー〉

 ─ 話を変えましょう。体育祭は盛り上がるのですか?

 中村 体育祭が終わった後が一番盛り上がりますね。

 香田 お酒を飲むことが許される日ですからね(笑)。

 中村 今は棒倒しが一番盛り上がる種目だそうですが、それは割と最近です。我々のときは騎馬戦だったのではないですか。

 田中達 そうそう。騎馬戦は盛り上がりましたよね。

 中村 記憶によると、全部で3回戦あって1回戦は総当たりで戦う。そこで勝敗を決めて2回戦は大将を含む数騎で戦う。そして最後の3回戦は大将同士の1対1です。この大将の雄姿がカッコよかったんですよね。入場時も応援団が太鼓で浪曲を叩いて入場してくるんです。

 田中寛 詩吟のような曲でしたよね。

 田中達 実際に詩吟部が出てきて詠んでいましたよね。

 中村 そうでした。その姿が本当にカッコいいんですよ。

 田中寛 学生たちが自分たちで考えて自然にそういうスタイルになったのでしょうね。

 香田 体育祭の伝統行事の一つですからね。

 田中寛 受け継がれています。

 中村 今は騎馬戦もなくなって帽子取りになっていますね。

 香田 体育祭が終わると「ファイヤーストーム」と呼ばれる焚火が伝統行事になります。焚火をしながら男子は裸になって火の回りを踊り回るんです。そこは女人禁制になります。

 ─ 男子だけですか。

 田中達 3年生の男子だけ。「女・子どもは帰れ」と(笑)。運動会の後は3年生の男だけが裸になって踊るわけです。そこに赤ふんどしの男たちが一升瓶を持って入ってくるんです。

 ─ それは誰なんですか。

 田中達 有志の先生と3年生です。他にも校旗を持ってくる男もいて、皆でお酒の回し飲みをしたりしていました。

 香田 街中の学校なので、あるとき近所から火が危ないというクレームがあったそうです。すると、消防署にもOBがいるので、その人が当日に消防車を持ってきましたよ(笑)。

 田中寛 今ではちょっと考えられないですよね(笑)。でもそのときは警察も分かっていて「いいか、家で飲んでもいいけど、ふらふら外に歩くなよ」と。

 ─ 学生たちを地域で支えていたように感じますね。

 香田 街がわたしたちを支えてくれていたように思います。

 田中寛 そうですね。高校の裏門からすぐのところにある商店街も当時はにぎやかで、制服を着て歩いていれば嘉穂高校の学生と分かりますから、「買い食いするな」と先生に言われても商店街の人たちは「まあまあ」と。そういう感じですよね。

 田中達 学校と地域とが、まるで阿吽の呼吸の関係でした。

 香田 あの街があったからこそ今のわたしたちがあり、成長させてもらえた気がします。今はその商店街もなくなってしまって地域とのつながりも薄くなってしまっていると聞いています。それが少し心配ですね。

 外を見て人を大事にしよう!

 ─ 最後に若者へのメッセージを聞かせてください。

 田中寛 地元にずっと張り付かず、どこでもいいから、1回は地元を離れて欲しい。大学時代に東京に行くのもいいでしょう。地元を離れて自分の将来のなりたい職業などを探してみる。まずは親元から離れることが必要です。

 今はリモートで仕事ができる時代です。必要なら30歳のときに帰ってくればいい。もっと外を見て欲しいですね。

 田中達 自分の足跡を振り返ると、高校時代を含めて人間同士の結びつきが自分にとって、ものすごいパワーになりました。だから、人の出会いと「縁」は大切にして欲しい。

 人間関係を大事にする者は会社の中でも伸びていると思います。年齢を重ねても、そういった人を大事にしていく生き方をして欲しいと思います。そんな話を母校でする機会があったのですが、学生たちも反応してくれました。世代が変わっても言葉は響くものなのですね。

 香田 わたしも田中達さんがおっしゃったように、人との関係を大事にして欲しいです。今はAI(人工知能)が普及したために、若い人は人を恋しいと思っているのではないでしょうか。

 自分のことを思い出しても、自分が一番輝いていたときは素晴らしい仲間が周りにいたように思います。ですから、友だちを大事にしながら、自分が面白いと思ったことをすべきです。

 中村 若い頃から明確な目標をもって、自らメニューを考えて努力している人は少なからず成功しています。大谷翔平選手をはじめ、成功しているアスリートは皆そうです。

 人は自ら責任を持ち、主体的に判断し、自主的に行動するときに最大の力を発揮するものです。やらされるのではなく、自ら考えて実行する人こそが成功しているように思います。様々な分野において、そういう若者が1人でも多く出てきて欲しいですね。

 ─ 本日は貴重なお時間をありがとうございました。