弁護士・久保利英明の【 わたしの一冊 】『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』

人の命は権力で奪えるものか

 今の若い人は知らないであろうが、戦前戦後にかけて最も有名な弁護士であったのが正木ひろし弁護士である。本書は映画「真昼の暗黒」の原作で絶版となっていた『裁判官』(カッパブックス 1955年初版)の復刊である。

 正木は1953年、死刑を言い渡された阿藤被告人の上告審弁護人を引き受けた。その後4年の審理を経て1957年10月、最高裁は有罪判決を破棄し、高裁に差し戻した。

 1959年9月、差し戻し審は全被告人に無罪の判決を下したが、検察側の上告を受けた最高裁は、1962年5月、逆に高裁の無罪判決を破棄した。

 1965年8月、高裁は阿藤ら、全被告人に再び有罪を言い渡した。正木は3度目となる上告をし、1968年10月、最高裁は阿藤ら全被告人に無罪を言い渡し、その無罪が確定した。

 事件発生から18年、死刑の宣告を受けた被告人を護って、正木が弁護人に就任してから15年が経過していた。三度目の上告審でやっと、無罪判決が確定するという世界的にも異例な経過を辿った。これは遠い他国のことではない、60年前に、現に日本で発生した事件である。

 この事件を「八海(やかい)事件」という。しかし、これは昔話ではない。

 諸外国では逐次、死刑制度が廃止され、無罪判決や再審開始決定に対する検察官の上訴、異議申し立てが制限されている。

 しかし、人質司法により庶民の人権が踏みにじられ、当番弁護士は弁護士の負担とされ、国選弁護制度の公的負担も乏しいこの国では、正木ひろしが何人居ても足りることはない。袴田事件や大川原化工機事件などの冤罪事件を見ても、日本の刑事司法の後進性は正木ひろしの時代から変わっていない。

 第二の戦前と言われる今日、戦前、戦中に政府に弁護と文筆により抵抗し続けた正木の本書の復刊は、時機を得たものである。更に、正木の絶版本の復刻を望む次第である。

【 企業と株主の関係を考える 】日比谷パーク法律事務所代表・弁護士・久保利英明 × 早稲田大学名誉教授・上村達男