基礎研究なくして応用研究はあり得ない

それでは続いては、利根川センター長の講演「脳科学研究における現状と今後の展望」である。いくつかのポイントがあるということで、まずは、BSIとは直接は関係がないということだが、基礎研究と応用研究について。最近、日本では米国の国立衛生研究所(NIH:National Institutes of Health)のモデルを使って、応用研究に国がもっと投資するようにしようという政府の動きがある。

この動きに対して、利根川センター長は信じられないという。NIHは応用研究だけを追求している組織ではなく、研究者が申請することで日本の科学研究費(科研費)に当たるものを助成するようなことを主に行っている組織である。そのため、NIHが研究費を助成しているのは、ほとんどが基礎研究だという。応用研究のみに的を絞って活動しているわけではないのである。基礎研究によって成果が出て応用研究に役立つ可能性が出てきたとすれば、それはもちろんスルーするわけではない。しかし、基本は基礎研究に注力しているというわけだ。

ところが、日本では政府関係者の誰かが誤解してしまい、応用研究を主眼にした日本版NIHを作るとし、そこにかけるお金を新たに用意するのではなく、日本の基礎研究に使われていた科研費をかなり減らしてその分を回して、もっと応用研究を盛んにするようにする、というのである。こんなことは、信じられないと利根川センター長はいう。そして、「こんなことが起こると、大変なことになる」とも続ける。

ただし、文部科学省の官僚も利根川センター長らの考えと一致しているということで、その点は安心なのだが、そうではないとある省のどなたかが、ちょっと周囲の誰かに入れ知恵されたらしく、ロクに勉強もしないまま目先の利益を追求しようとして、勘違いしたまま言い始めてしまったということらしい。なおこれが実現すると、文科省から内閣府に予算が移ってしまうということで、文科省では手を出せなくなることから、反対しているそうである。利根川センター長は、このことを非常に「由々しき事態」とした。

さらに、利根川センター長は、「応用研究というのは、基礎研究のないところにはあり得ない」と続ける。ライフサイエンスや医療の分野で重要な薬剤の多くが、非常に基礎的な研究を出発点としており、それは歴史上たくさんの例が存在するという。しかも、基礎研究を行った研究者は、応用研究にまで使おうとは思わず、基礎研究を続けた研究者がほとんどだとする。

利根川センター長からは、メディアに対しても注文があり、これらのことをどれだけ認識しているのか心許ないが、今回の話は脳科学に限らず科学全般のこととして、はっきりと肝に銘じて、そういう線に沿った報道してほしいとした。

米国が重視し続ける基礎研究

続いて紹介されたのが、NIHの中の大きな部門の1つであるNational Institute of General Medical Scienceのポリシーの1つ。もちろん米国も経済的に難しい状態だが、それでも基礎研究に力を入れ続けているという。同部門に関する英文のプレゼン画像が表示され、その中には「正常な状態がわかっていないのに、病気を治す薬を開発することなど不可能だ」とした。なおその英文は、画像11の通りである。

画像11。National Institute of General Medical Scienceのポリシーの1つ(英文)

このほか、米国のルーズベルト大統領時代、同国で初めて正式に科学アドバイザーとして政府の要職として活躍したVannevar Bush氏についても触れた。彼によって、マンハッタン計画は進められたのだが、最初はもちろん基礎研究からだった。結果として、戦争に勝つため・終わらせるためとして、日本はその破壊力をまざまざと見せつけられ、今もって核兵器は人類を何度も全滅させられるだけの量が配備されているという状況である。

「科学はそれを使うヒト次第でよくも悪くもなる」の典型として軍事利用されてしまったわけだが、核兵器はすべて基礎研究がなければ誕生しなかったことは間違いようのない事実だ。Bush氏自身は科学者ではなくエンジニアなのだが、基礎研究の重要性をよく理解していたということで、その発言は画像12の通りだ。

また、利根川センター長の友人で女性神経科学者のHuda Y. Zoghbi氏は米国神経科学学会の責任者の1人で、そのZoghbi氏によれば、神経科学というのは「この地球上で誕生した最も複雑な機械」である脳の研究を行う学問であるといったことをいっている。詳しくは、これまた英文だが、画像12のBush氏の発言の下にある。

画像12。Vannevar Bush氏およびHuda Y. Zoghbi氏の発言

利根川センター長によれば、どうやって脳が機能しているかという点については、研究が始まったのはせいぜい50年ほど前からということもあり、わかったことよりわからないことの方がまだまだ遙かに多いという。50年というと人間の一生と比較すると長く感じてしまうのだが、紀元前から続くようなものもあるほかの学問に比べるとサイエンスとしてはまだまだ始まったばかりといえよう(もちろん、脳に関する研究はもっと昔からも解剖学的になど行われているが、神経科学という学問はまだ新しいという意味である)。

ちなみに、脳のどれぐらいのことがわかったのかというと、利根川センター長は、実際のところは「よくわからない」としつつ、せいぜい数%だろうとの見方を示した。それも、マウスなどのよく実験に使われる動物の脳も含めての話である。人間の脳に限ってしまえば、さらにパーセンテージは下がるとしている。

基礎研究から生み出された応用の成果

続いて、どれだけ基礎研究が重要であり、それが応用研究に発展して、医学の面で進歩したかといった話がなされた。例えば糖尿病の患者にとって重要な「インシュリン」。これはすい臓のランゲルハンス島に関する基礎研究をやっていた中で見つかったものである。そのほか菌類の研究から見つかったペニシリン、DNAの構造研究から現在のDNAの組み換え技術など。利根川センター長のIg抗体遺伝子とエンハンサの研究からは、がんや関節リウマチなどの組み換え抗体への応用が見出されている。今回挙げられたものは、すべてノーベル賞を受賞したものだが、画像13の通りだ。

山中伸弥教授のiPS細胞に関することも取り上げられており、これらも最初は非常に基礎的な研究だったという。また、最後のiPS細胞関連はこれからという形だが、その上の6種類の基礎研究に関しては、その応用によって、いったいどれだけの人命が救われたかわからないという。

画像13。基礎研究があってこその応用という例

利根川センター長は、このように、世の中の数多くの人命を救うなどとても役に立っている薬剤はすべて基礎研究があって生まれてきたものであり、基礎研究がなかったら応用も何もないことを理解してほしいとした。