脳はなぜ複雑にできているのか?

続いて、脳についてまず理解してほしいこととして、なぜ脳がこんなに複雑なのかということを挙げる。それは、「やっていることが複雑だから」だという。意識、感情、言語……などなど、「脳は信じられないほど複雑なことをやっている」と、利根川センター長は語る。ただしその仕組みとして、「ただたくさんのエレメントを作れば複雑になるというわけではなくて、階層をうまく駆使していることが重要だ」とした。

脳はいくつもの階層を使っており、上の階層で起こっていることは、そのすぐ下の階層で起こっていることの足したものではない。1つの階層を上がるごとに新しい能力や機能などができるようになっているという。そのため、非常に多重な階層となっているというのだ。

なお、ここでいう階層構造とは、脳の物理的な層構造を指しているのではなく、分子レベルから脳全体までの階層構造のことである。DNAなどの分子レベル、ニューロン同士をつなぐシナプス、そしてニューロン1個の機能、ニューロン同士のインタラクション、脳細胞組織などの集合したものがあり、脳のさまざまな組織が専門化した機能を受け持ち、そしてその専門化した各組織もインタラクションしていて脳全体として機能しているというわけだ。このような複雑な構造によってはじめて脳は、意識、感情、言語などといった複雑なことを行っているのである(画像15)。「脳は複雑」なのだ。

画像15。脳の階層構造

そして、よくよく考えれば当然なのだが、それぞれの階層だけを研究しても脳全体はわからないのである。その一方で、実際に人間が取る行動を研究する学問である心理学だけでも、脳の中で実際に何が起きているのか、ということはわからない。つまり、全階層において現象を同定して、その相関関係を突き詰めていかないと、何がどうなっているのかはわからないのである。だから難しいのだ。例えば、どういう仕組みでヒトが言葉を操るのか、ということ1つを取ったって、全階層で観察や実験などを行わないとわからないのである。どうすると感情が生じるのか、意識はどのようにして発生してくるのかということもすべて総合的に行わないとならないというわけだ。

さらに話はBSIの今後の計画にも及び、画像16はBSIの第3期中期(FY2013-2017)研究計画をまとめたものだが、「神経回路機能の解明」が全体的な研究でその下に柱が3つある。「健康状態における脳機能と行動の解明」、「疾患における脳機能と行動の解明」、そして「先端基盤技術開発」というわけだ。

画像16。BSIの第3期中期(FY2013-2017)研究計画

脳の中では、ニューロン同士がつながって(画像17)、さらには上の階層としてニューロンの集団同士もつながって回路を形成する。つまり、脳は細胞の回路というわけだ。そして、さまざまな特殊化した回路が脳の各所にあり、それぞれがネットワークでつながっている。回路によって、感情を操っていたり、意識を操っていたり、記憶を操っていたりと特殊化されてはいるが、全体としてはそれらがまた総合化されているのもまた脳の特徴だ。そうしたことから、脳の回路が研究の柱とされたのである。

画像16。ニューロンのつながりを撮影したもの

柱の内の「健康状態における脳機能と行動の解明」は、通常の状態の脳を研究するものだ。さらに「疾患における脳機能と行動の解明」は、通常ではない状態として、病気のモデルを作ってその病気になった時はどこがどういう風に痛んでいるのかということを研究するという。

なお、細かくは前者は、意志決定、論理的思考、概念化、カテゴリー化、言語、認知、社会関係などがキーワードだ。後者は、認知症、アルツハイマー病、神経変性疾患、損傷、うつ病、双極性障害、統合失調症、強迫神経症、自閉症などとなっている。

そしてこの2本柱の研究を進めていくために必要となるのが、それらを実現するための手段としての新開発の各種テクノロジーだ。それが画像16の円の外にある「先端基盤技術開発」のことであり、可視化技術開発、脳深部の解析技術、蛍光・発光タンパク質開発の3点が重要とされている(画像18)。なお利根川センター長によれば、この画像16のような図が描けるようになったのも、この20~30年の間にもさまざまな技術が開発され、信憑性を持っていえるようになったその成果だという。

画像18。超解像度光学顕微鏡。理研では研究成果と同時に、1年の間にいくつもの新技術が発表されている

ただし、今の技術では「とても足りない!」と利根川センター長は力説する。よって、研究するのと同時に、新しい技術もどんどん開発していかなければならないとした。当たり前だが、ヒトの脳を研究する場合、骨を外して脳をむき出しにして、電極を差し込んで反応を調べる、なんてことはもちろんできるわけがない。もちろんできればもっと進展するのはわかっているが、そんな実験が倫理的に許されるわけがない。よって、ヒトの脳の場合は非侵襲的に実験しなければいけないのである。

現状の非侵襲的な技術にはMRI(画像19)があるわけだが、性能的には「まったく不十分!」だという。これまでのところはさまざまな発見がなされてきており、非常に役には立っているのも事実だが、基本、MRIは被験者に何かを考えさせたり見せたりして脳を働かせ、その際にどの部位の血流量が増えるかが見えるというもの(画像20)。脳を完全解明しようとしたら、MRIの解像度ではまったく不足だというわけだ。「実際のところ、何が起こっているのかよくわからない」のである。どれが先に起きて、どれがその結果なのかもわからないことも多いという。現状、MRIが最も優れた機械なので多くの研究者が利用しているが、利根川センター長が求めるレベルにはまったく到達していないのである。

画像19(左):MRI(fMRI)の使用中の場面。BSIには専用のfMRIが備えられている。 画像20(右):MRIでわかるのは脳内の血流量の変化

MRIで撮影してわかるのは、光って見える場所は血液流量が多い場所だということだ。わかるのはそれのみで、ニューロンの機能そのものがわかるわけではない。ニューロンの機能とは、いわゆる「発火する」ということ、別のいい方をすると「アクション・ポテンシャル」ということであり、MRIはそれを直接計測しているわけではないのだ。よって、利根川センター長が求めるレベルはというのは、もっとダイレクトにニューロンの活動を見られるような新しい技術というわけで、今後、そうした装置を開発しなければならないというわけである。

しかし矛盾しているように聞こえるが、利根川センター長によれば、そうした新たな技術の計測・観察装置を開発するのは、脳科学者ではないという。脳科学者が開発する可能性は0%に近いとする。誰が開発するかというと、物理学者やエンジニアが開発するのだそうだ。「しかも、年取った人は開発しない」として、会場の笑いを取る。今はまだ学生ぐらいで、脳科学に興味があるけど、数理的な学問あるいはエンジニアリングに興味と才能がある人が、おそらく開発するだろうと予言ともいえるような発言をした。

どちらにしろ、新技術はまだ開発されていないわけで、今はMRIなどを使って進めていくしかないということで、2つの研究の柱のほかにもう1つ、先端基盤技術開発も重要であるとし、講演は終了となった。このあとは、質疑応答も興味深い内容だったので続けて収録する。