愛用する腕時計を手がかりに"人生の時"を語ってもらうインタビュー連載『夢を刻む、芸人の時計』。テレビでおなじみのあの芸人は、どんな若手時代を過ごし、ブレイクの瞬間を迎え、どうやって未来を刻んでいくのだろうか? そのストーリーに迫る。
本稿で話を聞いたのは、お笑いコンビ フットボールアワーの岩尾望さん。1975年12月19日生まれ、大阪府大阪市出身で、NSC大阪校14期生。相方の後藤輝基さんと1999年にフットボールアワーを結成している。
カルティエにロレックス、IWCなど...これまで登場した「芸人の時計」を一気に見る
49歳で目覚めた時計愛。初めてはロレックス「ヨットマスター」
――人生で初めて手に入れた時計を教えてください。
よく行く服屋で買ったデジタル時計、あとは初期の頃のApple Watchなど、いくつか思い出す時計はあります。でも若い頃は時計に関心がなくて、ちゃんと興味を持って買いはじめたのが2年くらい前から、49歳くらいからなんです。それがロレックスの「ヨットマスター」でした。それまで良い時計を手にした高揚感って分からなくて、人がつけてる時計にも無関心で生きてきてて。買ってもすぐ失くすし、学生時代にも時計をつける習慣がなかったから、次から次へと時計を買っている現在も、つけ忘れて外出することが割とあります。
――ヨットマスターを購入したきっかけは?
通っている美容院にたまたま時計の雑誌が置かれていて、それを見ていたら美容師さんと時計の話になったんです。「ボクは全然、時計に興味はなくて」とは伝えていたんですが、「良い時計は価値が下がらない、逆に価値が上がることもある。ロレックスなら1本くらい持っておいても良いと思います」なんて話をしてくれて。それが頭に残っていたんでしょう。家に帰ってからネットを見たり、雑誌を見たりして少しずつ興味が沸いてきたんですよね。
それじゃ1回、見に行くだけでもということでロレックスの店舗に行ってみたんです。サブマリーナ、エクスプローラー、デイトナなどのモデルは知っていたんですが、「王道は避けたいな、ちょっと違ったイメージの時計が良いかも」と思っていたときに惹かれたのがヨットマスターでした。モデルの歴史も何も知らず、なんとなくの雰囲気で手にした時計です。
――そこからコレクションが始まったんですね。
コレクションしようと思っていたわけではないんですが、1個手にしたら「ほかにはどんなモデルがあるんだろう」って気になって、いろいろ見てしまうんですよね。はじめに購入したヨットマスターは結構高かったのでほとんどつけてなくて、2本目として、もっと気軽につけられるモデルを探しはじめて、シンプルなステンレスブレスレットの「エクスプローラーⅠ」を買いました。
M-1初年度の惨敗に「芸人としての失格」すら感じた
――初めてお笑いの舞台に上がったときのことを憶えていますか?
どのステージを"初めて"と言ったら良いか分からないんですが、最初の頃、NSCの同期と組んでオーディションライブでネタをしたのは憶えています。作家が審査するんですが、面白かったらずっとネタを続けられる、面白くなければネタの途中で舞台から降ろされる、というライブでした。
その頃から「人と違うことをやりたい」という思いがあって、ほかの人が思いつかないような斬新なネタを模索していました。「やってんな」「奇才と思われようとしてんな」って思うかも知れません(笑)。ただ「ど真ん中は避けたい」というあのときの思いは、現在も変わらないですね。
――これまで芸人を辞めたい、と思ったことはありますか?
あったかな…。思い出すのは、NSCの同期と組んだコンビを解散して、後藤とフットボールアワーを結成して2年目くらいで出場した、第1回のM-1グランプリ(2001年)のことですかね。
当時、漫才で1,000万円もらえるなんて常識ではあり得なかったですし、様々な師匠が審査員をやられる、ってことでボクたちも出場したんですが、決勝の舞台ではまったく歯が立たず、惨敗に終わっちゃって。それまで大阪の劇場で、お笑い好きのお客さんたちの前ではウケてた漫才が、全国ネットの生放送でまったく通用しなかったんです。なかでも一番評価して欲しかったダウンタウンの松本人志さん、島田紳助さんの得点が50~60点くらいで極端に低くて、そんなんもう「芸人として失格」って言われたようなもんじゃないですか。惨憺たる結果に「もうあかんねや」って落ち込みました。
――その後、第3回のM-1グランプリ(2003年)で優勝されました。悔しさをバネにできたのでしょうか?
M-1のあと「もう終わりや」と思って大阪に戻ったんですが、もともと入ってた劇場の出番には出なあかんし、出るんやったらネタも作らなあかん、ってなったんです。あのとき劇場の仕事が入ってなければ「辞める」って選択肢もあったかも知れないんですが、言っても劇場メンバーだったので、もう定期的に出番が入れられてるし、「だったらネタ作るしかないか」って。
そのうち「もう1回、あの場所に立ってちゃんと評価されたい」って思えたんですね。ネタの作り方を変えたら、大阪の賞レースも順番にとれていって、良い感じのところで出場した第2回のM-1では2位になれました。松本さん、紳助さんの得点も80点くらいで、当時の基準ではめちゃ高い得点で。「次は優勝するしかない」ってことで、翌年はダーっと勢いで行けた感じです。



