フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


飛び級で中学校へ

石井茂吉は1902年(明治35)、滝野川高等小学校からひと足飛びで、原町(現・文京区白山)にある京北中学2年生に編入した。京北中学校は、仏教哲学者の井上円了(1858-1919)が1899年(明治32)に設立した学校である。

  • 京北中学校の校舎 (『石井茂吉と写真植字機』p.17より)

    京北中学校の校舎 (『石井茂吉と写真植字機』p.17より)

茂吉にとって中学校の授業は、世界を広げてくれるものだった。高度な知識を得ることは楽しく、図書館にも足しげくかよった。京北中学での4年間も、茂吉はすばらしい成績をおさめた。

もっとも英語だけは、いきなり中学2年生に編入したために、最初は遅れ気味だった。茂吉には、本郷元町(現・文京区本郷)の服部家に養子に行き、その一帯でいちばん大きな質屋を営む叔父の万吉がいた。茂吉は叔父の家に一時期下宿し、神田錦町の正則英語学校の夜学にかよって、英語の遅れを取り戻した。

こうなると、数学、物理、国語、歴史……すべての科目で秀でた成績をおさめる茂吉は、井上円了校長をはじめ、先生たちの目をひいた。「京北のキリン児」として毎日新聞紙上に紹介されたこともあったほどだ。

  • 中学時代の茂吉 (『石井茂吉と写真植字機』p.19より)

幼いころから従姉のこうの真似をして文字を書くことが好きだった茂吉は、習字が上手だった。担任の教師は茂吉の書を見ては感心して、しばしば全校生徒に展示したものだった。また、このころから「柿葉」の雅号で同好の士と俳句や短歌を楽しむようになり、同級生との絵葉書交換で、俳句を書き添えたりもした。[注1]

入学前に父と交わした約束のとおり、家の手伝いは続けていた。学業にはげみながら、日曜日には筒袖、ももひき、わらじばきの姿で、東京の町のなかを荷車をひいて歩いた。その姿は、同級生もひそかに敬愛の念をいだくほど、堂々としていた。

力を存分に発揮できる場所

1906年(明治39)3月、茂吉は4年間の中学生活を終え、京北中学校を首席で卒業した。中学に進学するときにはあれほど迷った両親と茂吉だが、もはや上の学校を目指すことに迷いはなかった。本郷の叔父の家に下宿をしながら入学試験の準備にはげんだ茂吉は、同年7月の試験をみごとに突破し、9月には〈わこうどのあこがれであった〉[注2] 第一高等学校に入学。二部甲類に籍をおき、工科の道に進んだ。[注3]

さらに、一高でもすぐれた成績をおさめた茂吉は、1909年(明治42)9月、かねてから志望していた東京帝国大学工科大学機械工学科(現・東京大学)に入学したのだった。

  • 東京帝国大学工科大学の校舎 (『石井茂吉と写真植字機』p.27より)

大学での学問は、これまでかよってきた学校とは比べものにならないほど厳しかった。当時の東京帝国大学では、ついてこられない者は2割落第させるのも普通のことで、2年連続で落第すれば、容赦なく退学となった(文系はまた別として)。外国語で文献を読み、講義を聞く語学力や、専門学習の基礎となる知識は、高等学校で当然身につけてきているものとされた。

茂吉は、一高時代の途中から本郷の叔父の家に下宿し、朝まで自室にこもっては書物を読みふけり、勉学にはげんだ。機械工学科の主任教授は、のちの日本機械学会会長となる加茂正雄(1876-1960)。茂吉は教授の研究室だけでなく自宅にまで訪ね、熱心に教えを請うた。

高校時代には〈すでにおとなの部類に属し、世間のこともじゅうぶんに心得た成人〉で、やさしく静かな調子で同級生をさとす学生だった。[注4] 大学時代にも決して目立つ存在ではなかったことは、東京帝大機械工学科の同窓生であった小林潔史の〈字がうまくて目をクシャ、クシャさせてユックリ話をし、(中略) 三年生になっても型のくずれない角帽をかぶっていたことくらいしか、印象に残っていなかった〉[注5] という言葉からもうかがえる。しかし数少ない当時のエピソードから浮かんでくるのは、物静かで実直、几帳面な人柄である。

1912年(明治45)7月、茂吉は東京帝国大学を卒業し、工学士の学位を得た。まだ大学生の数がひじょうに少ない時代。東京帝国大学出身の学士ともなれば、就職もひっぱりだこだった。数ある候補のなかから茂吉が選んだのは、神戸製鋼所である。現在では大手鉄鋼メーカーとして知られる同社だが、当時はまだ、神戸の鈴木商店から独立したばかりの小さな会社だった。しかし新興の会社だからこそ、自分の力を存分に発揮できるのではないかと、茂吉は考えたのだ。

(つづく)

◆本連載は隔週更新です。


[注1]『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) p.4 京北中学同級生の浅山忍の寄稿より
[注2]『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) p.5 京北中学同級生の浅山忍の寄稿より
[注3] 第一高等学校は、東京大学教養学部などの前身となった旧制高等学校
[注4] 『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) p.135 一高、東京帝大の同級生で、工学院大学学長となる野口尚一の寄稿より
[注5] 『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) p.58 東京帝大機械工学科の同窓生、四五機会(=明治45年東大機械卒業同窓会)の小林潔史の寄稿より

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(写研、1975)
『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)

【資料協力】
株式会社写研