フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


ただ一度の両親への反抗

石井茂吉は、両親にさからったことのない孝行息子だった。そんな茂吉がただ一度だけ、両親に激しく抵抗したことがある。1912年(明治45)7月[注1]に東京帝国大学を卒業した彼が、兵庫の神戸製鋼所に入社するにあたり、ゆくゆくはある女性――石井いくを妻にむかえたいと両親に告げ、反対されたときだ。

  • 茂吉といく (『石井茂吉と写真植字機』p.47より)

石井いくは、東京府北豊島郡滝野川村字田端(現・北区田端)で1894年(明治27)2月6日に生まれた。旧姓も石井だが、茂吉との血縁関係はない。父・清次郎は上野の博物館や阿部伯爵邸(文京区西片)など格式の高い造園を手がける庭園師だった。いくは2人姉妹の長女で、病弱だった母 [注2] を助けて家業を手伝い、父が抱える植木職人の世話をしていた。

いくは、茂吉の妹いわの級友だった。「いわ」と「いく」は同姓で名前も一文字ちがいだったため、学校でまちがえて一緒に返事をしてしまった笑い話をいわが家でもしていたし、互いの家に招きあって遊ぶ仲でもあった。しかし茂吉はそのころ本郷の叔父の家に寄宿中で、実家には時折しか戻らなかったので、いくのことをあまり知らなかった。

いくと茂吉が実際に知り合ったのは、茂吉が東京帝国大学に在学中の1911年(明治44)のことだ。年に一度行なわれる滝野川小学校の同窓会の幹事に指名されたのである。茂吉24歳、いく17歳だった。2人は先生の自宅や学校で開催される幹事会の集まりで会うようになり、会合が終わると、茂吉はいくを田端の家までたびたび送り届けた。

実のところ、そのころにはすでに、茂吉のなかにはいくへの思いがあった。幹事会で彼女が見せる聡明さと女性らしい立ち居ふるまい、周囲におもねらない凛とした美しさに、茂吉は強く心惹かれた。しかし茂吉はそのことを言葉にあらわさなかったし、いくもまた、東京帝大を出て「学士様」になる茂吉は手の届かない存在で、尊敬すべき同窓の先輩と思いこそすれ、彼が自分に思いを寄せているなどということは、思いもよらなかった。

海に落ちる

その年の暮れに母が亡くなり、いくは家の切り盛りをいっさい担わなくてはならなくなった。ぶじに同窓会が終わると、いくと茂吉は、会う機会もなくなってしまった。

翌年(1912)の春、同窓会幹事会の有志とその家族とで、品川沖に潮干狩りに行く企画が持ちあがった。いくは家の都合があり、堀の内の荒川堤から出発する一行の船には乗らず、本所の吾妻橋を渡った岸で合流するという。茂吉は、いくの予定に合わせることにした。

いくと茂吉は上野から市電に乗り、雷門に向かった。一行との待ち合わせ場所に、時間よりも早く着いた2人は、川の土堤を散歩した。この好機を逃す手はなかった。茂吉はすこしのためらいのあと、やや唐突にいくに告げた。

「あなたさえよければ、これからの人生をともにしたい。どう思いますか」 「えっ……」

いくにとっては青天の霹靂だった。その場で返事ができるはずもなく、「父とよく相談して考えます」と微笑むのがせいいっぱいだった。やがて2人は、幹事会の仲間たちと合流した。

後年になって、2人の娘・千恵子が、母の用箪笥から偶然、茂吉の日記帳を見つけたことがあった。和紙を綴じて表紙をつけたもので、筆書きされており、表紙には「うきくさ日記」というような題が書かれていたという。パラパラとめくるうちに、母と交際していたころに父が書いた日記だと気がつき、夢中になって数カ所を読んだ。そこに、この潮干狩りに出かけたときのことが書いてあった。

「父は舟をこぎながら彼女の(と書いてありました)乗った舟の方にばかり気を取られて、二度も海に落ちたと書いてありました」[注3]

ふだん物静かで落ち着いた茂吉が、プロポーズ後のいくの様子が気になるあまり、二度も船から海に落ちたというのだ。頬を紅潮させて微笑んだ彼女の様子によい返事を期待して、さすがの茂吉も舞い上がってしまったのだろうか。

しかし茂吉は、いくに求婚したことを、大学卒業までだれにも話さなかった。たがいの親の承諾を得て、筋を通したうえで結婚したい思いがあったからだ。いくと会うときには、いつも妹と一緒だった。唯一手紙のなかで、おたがいの気持ちを伝えあった。

ひとり横須賀へ

大学を卒業し、いよいよ神戸製鋼所に出発するにあたり、茂吉は両親にいくのことを打ち明けた。しかし両親、とくに母の強い反対にあった。「帝大出の学士様なら、どんな良家からでも嫁の来てはある」[注4]というのが理由だった。

いく本人のことではなく、家や財産を理由に反対されたことに、茂吉は立腹した。両親に憤りをぶつけ、そのまま神戸に向かった。一度たりとて両親に反抗したことがなかった息子が、怒りをにじませたまま旅立った様子を見て、両親は彼の思いの強さを知った。

7月に大学を卒業後、すぐに神戸製鋼所に入社した茂吉は、ほどなく実習生として横須賀の海軍工廠[注5]に派遣され、追浜工場にかようことになった。工場の仕事は朝6時半から始まる。初めての土地での一人住まいは身にこたえ、いくとの結婚への思いがつのった。

やがて両親から、結婚を許諾する手紙が茂吉に届いた。せっかく就職して新しい門出を迎えた息子が、結婚への反対が理由で仕事に身が入らないのではいけないと心配し、父母はついに折れたのだった。

一方のいくは、2人姉妹の長女だったため、本来であれば婿養子をとって家を継がなくてはならない立場だった。しかし父・清次郎は「それほどの決意があるのなら」と2人の結婚を快く許した。

こうして1912年(大正元)11月、滝野川小学校の恩師である相沢栄二郎校長夫妻の媒酌により、茂吉といくは結婚した。茂吉25歳、いく18歳。茂吉・いく夫妻の四男にして第8子の不二雄は、のちに父を「夢と情熱とに一生をささげた人」と言った。それは、写植機の開発という大事業を指すのみならず、結婚相手を自由に選べることがまだ少なかった[注6]明治の時代に、「恋愛結婚を貫いた」情熱をも指していた。[注7]

結婚式を終えた茂吉といくは、鎌倉に新居をかまえた。

(つづく)

◆次回更新は2023年1月10日(火)の予定です。


[注1]明治45年は1912年7月30日まで。同日以後が大正元年となった。
[注2]厳密には継母。いく姉妹の実母は、事情があって、いくが10歳のときに父と離別していた。『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969) p.33
[注3] 『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) p.233 石井茂吉令嬢(二女)・三好千恵子の寄稿より
[注4] 『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969) p.35
[注5] 海軍工廠:かいぐんこうしょう。旧日本海軍で、海軍艦船と、兵器の製造、修理、艤装、兵器の保管と供給をつかさどった役所。各軍港にあり、その鎮守府に属していた。(小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006)
[注6] たとえば1977年に発表された出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)第7回(1977年)報告書「昭和52年度実地調査 第7次出産力調査報告――概要および主要結果表――」では、結婚形態について、〈結婚持続期間35年以上(戦前に結婚した夫婦)では見合い結婚は70.3%、恋愛結婚は13.3%であった〉と述べている。昭和に入ってもなお、戦前では恋愛結婚はわずか1割強に過ぎなかったことがわかる。
(参照) 国立社会保障・人口問題研究所「出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)」 (2022年10月12日参照)
[注7] 『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)p.235 石井茂吉令息(四男)・石井不二雄の寄稿より

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(写研、1975)
『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)

【資料協力】
株式会社写研