フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


そうめんの名産地で

信夫は、なんでも自分でつくってみる子どもだった。

森澤信夫。写植機メーカーであり、現代ではデジタルフォントを代表するメーカーとなったモリサワを、のちに創業する人である。

1901年(明治34)3月23日、兵庫県揖保郡太田村字東保(現在の揖保郡太子町東保)で、父・豊次郎、母・ことみの二男として生まれた。男4人、女4人の8人兄弟で、信夫は第二子にあたる。

  • 両親と幼少時の信夫 (写真中央)、兄妹 (馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974)p.77より

    両親と幼少時の信夫 (写真中央)、兄妹 (馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974)p.77より

太田村は、姫路から西に12kmほど離れたところにある、戸数わずか26戸の小さな村で、そのほとんどが農家だった。森澤家は代々の庄屋だったが、曽祖父の代に分家し、信夫の祖父は山林業を営んでいたという。信夫の生家は山陽道(西国街道)のそばにある、広い家だった。

  • 森澤信夫生家の場所 (モリサワ2017年8月調査報告より推定)[注1]

太田村は、「揖保乃糸」の名で知られる「播州そうめん」の産地だった。[注2] 信夫が幼い時分には、父・豊次郎はそうめんの製造にたずさわっていた。1903年(明治36)には京都で開催された第5回内国勧業博覧会にそうめんを出品し、三等賞牌を授けられた。1907年(明治40)にも、京都で開かれた農商務省の府県連合品評会で一等賞牌を授けられている。

  • 父・豊次郎が第5会内国勧業博覧会に正面を出品し、授けられた三等賞牌 (馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974)口絵より

豊次郎はそうめんを手作業でつくっていたが、機械化を考え、大阪からそうめん製造機を入れた。[注3] もともと器用で、機械いじりの好きなひとだった。機械の不備に気がつくと、みずから改良を加えた。

やがて豊次郎はそうめん製造機をつくる機械メーカーに身を転じた。信夫が地元の太田尋常小学校にかよい始めた1907年(明治40)のころには、自宅には「森澤鉄工所」という看板が掲げられていた。

工場はワンダーランド

森澤鉄工所は、白壁の塀で囲まれた敷地のなかにあった。工場3棟、テニスコートが2面とれる広さの中庭、そして両親や兄妹たちが住んでいる母屋。天気のよい日には、信夫は中庭で自転車の練習をして遊んだ (当時まだ自転車はあまり普及していなかった)。

学校から帰ると、勉強はそっちのけで工場に入りびたり、職人たちの仕事ぶりや機械をながめて過ごした。工場には4、50人のいわゆる「渡り職人」が働いていた。「渡り職人」とは、みずからの技術だけで全国各地を渡り歩いて職につきつつ、技術を磨くために転々として暮らしている職人だ。定住していないため、仕事が終わると工場で食事をとって、そのまま泊まりこんだ。信夫は母屋で自分の夕食を済ませると、夜にはまた工場に戻り、職人の布団にもぐりこんでは、彼らのおもしろい体験談を、目を輝かせながら聞くのだった。

やがて信夫は、工場に落ちているネジや金属くずを拾って、いろいろなものを組み立てて遊ぶようになった。信夫にとって、工場はワンダーランドだった。機械のメカニズムの不思議さに強く惹かれた。

ライト兄弟がはじめて動力飛行機での有人飛行に成功したのが、1903年12月のことだ。少年たちは皆、ライト兄弟にあこがれて、模型飛行機づくりに没頭した。もちろん、信夫も例外ではない。山から竹を切ってきて削って竹ひごをつくり、それを火にかけて曲げて、模型飛行機をつくった。しかし、動力にするゴムひもが田舎では手に入らない。そこで信夫は、哺乳瓶と乳首をつなぐために用いられていたゴム管を裂いて飛行機にかけ、ゴムひもの代わりにした。彼の模型飛行機は、広い中庭の空をよく飛んだ。

あるとき信夫は、家にたくさん転がっているミルクの空き缶で蒸気機関をつくることを思いついた。祖父に頼んで空の薬莢 (やっきょう) [注4] を山から拾ってきてもらい、ピストンのシリンダーにした。蒸気機関をつくりあげると、手製の船体に動力として取りつけた。船はみごとに走り、大人たちを感心させた。ただ父親だけは、ひそかに舌を巻きながらも「ミルク缶のようなもので蒸気機関をつくるとは、もし爆発でもしたら大ケガをするぞ!」と信夫に雷を落とした。高等小学校2年生のことだった。[注5]

自分のものは自分で始末する

こんな様子で、学校の勉強はそっちのけだったから、信夫の学校の成績はそれほどよくなかった。彼にとって職人は師であると同時に友であり、工場は学校であると同時に遊び場であったが、本来の学校生活はあまり楽しいものではなかった。唯一、手工科の成績はずば抜けてよかった。手工科とは、図画工作のなかでも立体造形にかかわる領域を扱う科目だ。 [注6]

なかでも信夫が才能を発揮したのは、先生が「なんでもいいから好きなものをつくってきなさい」という課題を出したときだった。工場に行けば道具はあるし、その使い方は見よう見まねで知っている。わからないことがあれば、職人たちに質問すればよい。材料となるものも、そこらじゅうに転がっている。自由課題を出されたときの信夫は、いつも先生を驚かせるようなものをつくりあげた。

信夫はまた、父・豊次郎により、「自分のものは自分で始末する」よう厳しくしつけられた。この場合の「始末」は一般的な「片づける、処分する」あるいは「倹約する」などの意味ではなく、「不都合のないようにする」とでもいえばよいだろうか。たとえば豊次郎は、自分の履く草履は自分でつくるよう信夫に言った。草履づくりは、手間がかかる。藁を叩いてやわらかくし、これで縄をなって芯にして、さらに藁で編んでいく。経済的には恵まれていたから、使用人につくらせることもできるし、売っている草履を買うこともできた。しかしあくまでもしつけの方針として、豊次郎は信夫に自分の手で編ませたのだった。

父・豊次郎も、そうめん製造から転じて、そうめん製造機メーカーを立ち上げた、ものづくりの人である。信夫の創意工夫やものづくりの才能は、こうした環境のなかで育まれた。

(つづく)

◆本連載は隔週更新です。


[注1] 2017年8月にモリサワが行なった「森澤信夫生家調査報告」を参考にした。
地図出典:
国土地理院ウェブサイト
拡大地図(2022年12月3日参照)
[注2] 「そうめん(播州手延そうめん揖保乃糸)」兵庫県太子町ウェブサイト (2022年10月15日参照)
[注3] 2017年8月のモリサワ調査報告では、「そうめん製造機」とは、当時大阪にあった「五徳式カケバ機」ではないかと推定している。「カケバ機」とはそうめん製造の一つの過程で、2本の棒に麺を巻きつけて延ばす「掛け巻」工程を機械化したもの
[注4] 薬莢:鉄砲の発射薬を詰める筒
[注5] 1907年(明治40)小学校令が一部改正され、それまでの尋常小学校4年、高等小学校4年から、尋常小学校6年、高等小学校2年に変わった。森澤信夫の時代は、高等小学校は2年間だった。
[注6] 手工科は、1886(明治19)~1941年(昭和16) まで存在していた。平野英史「昭和初期における小学校手工科カリキュラムの展開―高等師範学校附属小学校の手工科教員による提案から―」『美術教育学』第37号(美術科教育学会、2016/3) p.361

【おもな参考文献】 産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』(産業研究所、1968) pp.185-245
沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』(モリサワ、2000) pp.16-25
馬渡力 編『写真植字機五十年』(モリサワ、1974) pp.76-82

【資料協力】株式会社モリサワ