これを書いているのが6月の頭であり、そろそろ毎年「悲報!今年半分終了」と、悲報どころか嬉々として伝えにくる時報係がアップを始めている頃だが、それは新人時報係がやることであり、ベテランはすでに「悲報!あと1ヶ月で今年半分終了」と呟き終わっている頃だ。
新人といえば、今年4月に入社した新入社員の皆様は、5月病を越えそろそろ仕事にも慣れてきた、もしくはすでに辞め、仕事の早い人間はネットワークビジネスセミナーの予約を入れている頃だろう。
4月に新卒一括採用というのは日本独自の文化であり、そのような主体性のないことはもうやめようという声も大きい。
だが、この文化のおかげで本来なら永遠に就職活動をせずニートかフリーターになっていた主体性のない人材が、「周囲の就活ウエーブに乗り遅れたくない」という一心だけで就活を始め、流れで社会人になれたというのも事実である。
一斉に採用された新入社員たちは、退職スピードが配属スピードを超えた大型新人以外はどこかの部署へと配属される。
最近この配属のシステムが「ガチャ」であると話題になったそうだ。
ガチャ有識者、世間の「ガチャ」認識にモノ申す
○○ガチャという言葉を聞くたびに、本当にガチャのシステムを理解していっているのか、エアプで言ってないかと疑いたくなる。
ガチャが本人の努力の介在する余地がない完全な運と思われているなら大変遺憾である。
ガチャというのは完全に運で回す側が何もできないと思われがちだが、そんなことはない。「運が悪ければ出ない」というものではなく、「出るまで回せば出る」システムだからである。よって運ではなく、回す側が出るまで回すか否かに全てがかかっている。
つまりガチャはこれ以上ないほど「友情・努力・勝利」の世界なのだ。
ちなみに「友情」というのはどれだけ金を貸してくれる友人がいるかで話が変わってくるという意味である。
出るまで回すには、込み上げる吐き気を抑えて回し続ける精神力、そして「金」が必要だ。
「金」というのは、親のクレカをパクって回しているのでなければ、本人の努力の結晶である。
努力を口座残高という、目に見える形で削って回しているのに「ガチャは運」と言われてしまうのは大変遺憾だ。
実際、ソシャゲでランカーと言われる人たちは、豪運の持ち主ではなく、金と時間をかけている人だ。運で1枚2枚レアカードを出してどうにかなる世界ではない。つまり結局は努力したやつが勝つのだ。
それに対して、少し前に話題になった「親ガチャ」など、完全に運である。
しかも出るまで回すどころか、人間が今まで一度に生んだ人数は最大でも9人らしいので「10連ガチャ」すら不可能なのである。
しかも、出てきた先の親が見るからに「R顔」だったため、子宮に戻ってやり直しというリセマラもできない。
単発引き直しなしの1回勝負なのが親ガチャというものであり、こんなシステムのガチャを採用しているソシャゲなどどこにもないのだ。
ただ、親ガチャというのは同時に「子供ガチャ」でもある。
子供ガチャであれば「当たりが出るまで出し続ける」が不可能とは言い切れないし、たとえ出てきたのが「NよりのR」でも、その後の課金と努力で強くする余地はあるので、こちらのシステムは割とソシャゲに近いと言える。
配属ガチャの理不尽、状況に迫られて改修中
では「配属ガチャ」はどうかというと、従来の配属は、本人の適正や学生時代何をやっていたかなどは考慮せず、本当にランダムで配属先が決められることが多かったようだ。
つまり本人の努力などが介在できない「親ガチャ」と同じく、完全に運の世界である。
しかし現在日本は少子高齢化社会であり、新卒の数自体が激減している。とりあえず適当に配属して生き残った奴だけ使えば良い、という貴族人事では、ふるいにかけた後には「虚無」が残り、会社は若い人材を確保できず衰退の一途を辿ってしまう。
よって最近では、そう簡単に辞めないよう、学生時代の専攻や本人の希望などを見て配属先を決めているようだ。
むしろ今までそういうところを見ずに適当に配属していたというのが驚きである。
だが、配属ガチャに学生時代やってきたことや「ぜひサンドイッチ班ピクルス担当に」など、本人の努力や熱意が加味されるようになったというのは、新卒側からしたら良いことのように思える。
だが、配属ガチャをクリアしても今度は「上司ガチャ」が待っており、こればかりは本人の努力ではどうしようもない。
しかし、仕事ができる上に人格者の、はたからみればSSR上司の元に配属されたとしても「上司が立派すぎて、自分と比較して凹んだ」などの理由で、うつになる奴もいる。
このような、繊細すぎてすぐ微熱早退する新人が配属された上司側も「新人ガチャ爆死」と言っているだろう。
深淵を覗いているときのように、こちらがガチャで当たりだハズレだと言っているとき、相手もこちらを当たりだハズレだと言っているということである。