私は「ツイッター川沿岸」という、ハザードマップが虹色に塗られている危険地帯に10年以上住んだおかげで防災意識が高く、見ただけで「これに触ったら、一日中『モヤる』とかいう、ネット民特有のお気持ちになってしまいそうだ」とわかる言葉やトピックには最初から近づかないようにしている。

だが、そうやって流れて行くのを見送った言葉ほど、コラムのテーマとして鮭のように私の元へ帰ってくるのである。

「親ガチャ」は「ガチャ」とは言えない?

そんなわけで、今回わざわざ川を上って戻って来てくれたのが「親ガチャ」だ。

見ただけで何となく意味は分かるし、食欲がなくなりそうな気配を感じるのだが、ソシャゲなどやったことがない、という利口な方に一応説明すると、ガチャとはくじのようなもので、子どもの人生は親で大体決まってしまい、どの親の元に生まれるかは完全に運なため、どうしようもない、という考え方が「親ガチャ」である。

まず一介のソシャカスとして言わせてもらうと「親は選べない」という意味で「ガチャ」と言うのは不適当である。

ガチャ=完全に運のギャンブルと思われているが、実は違うのだ。何故ならガチャは「出るまで回せば出る」からだ。つまり「勝率100%」であり、むしろギャンブルとは真逆の存在である。

もし、出生をガチャと言うなら「福山雅治と吹石一恵の家にいくまで回す」ができなければ、ガチャとはいえない。

もしかしたら覚えていないだけで、何度か回した結果が今の親であり、雅治と一恵が出るまで回した奴が今福山家にいるのかもしれないが、それならば「雅治が出るまで回さなかったお前が悪い」ということになる。

つまり「完全に運な上、一発勝負」なものを「ガチャ」と言うのはおかしい。そんなことを言ったら、家とコンビニを横飛び、途中でアコムを交えながら三角飛びの末、福山家を引いたかもしれない誰かの努力を完全否定することになってしまう。

「努力のしやすさ」も親ガチャで変動

  • 「出るまで回せば勝率100%」、某お笑いコンビのゼロカロリー理論並みのマジックワードです

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このように出生システム自体を「ガチャ」と呼ぶのには異論大ありだが、「どの親を引いたかによって子どもの人生が決まる」というのは否めないところがある。

その考え方に対しては、既に「全て親のせいにして努力をしないからだ」とのお叱りの声も多数出ているようだ。確かに努力で良くなることも多いだろうが、さすがにそれは努力を万能視しすぎな気がする。

もし金田一の犯人ばりに「やはり努力…!! 努力は全てを解決する…!! 」という世界観だったとしても、まず親ガチャにより「努力すらできない環境」を引いている場合もある。

親ガチャというのは、単に親に経済力があれば当たり、なければはずれ、というわけではない。

「塾に行かせてもらえなくても、机にかじりついて勉強すれば成績は上がる」と言われても、親が自分の体をメチャクチャに揺さぶってくる系の家庭に生まれた場合、まず「机にかじりつく」ということが無理だったりするし、「一体いつから家に机があると錯覚していた? 」というご家庭もあるだろう。

また、目の前で母親が額から血を流している状態を無視して、計算ドリルに集中するというのもなかなか難しいだろう。

このように努力しようにも、まず努力ができない環境で努力ができるようになる努力の必要がある家に生まれた者もおり、やっと落ち着いて計算ドリルに向かえるようになった時には40を超えている恐れがあるのだ。

また努力というのは「時間」をかけて行うものであり、家の手伝いなどで時間がなければできないし、それでも努力しようと思ったら「睡眠時間」などの健康を削ることになってしまう。文字通り「命がけ」であり、そう簡単なことではない。

もちろん、親が自分の頭を蹴鞠と呼んでいる雅な家庭に生まれても努力の末、豊かな暮らしをしてらっしゃる方もいるだろうが、誰にでもできることではない。

つまり、努力するにも努力できる環境か才能が必要であり、どちらもガチャで引けていなかったら「諦める」になってしまっても不思議ではない。

このように、生まれた環境によって起こる格差というのは、もはや個人の努力でどうにかなる問題でもない。「親ガチャに失敗したら何をやってもダメ」と言わせたくないなら、どんなファンキーな家に生まれても、せめて「努力ができる環境」を国が用意しなければならない。

はたから見たらSSRの「爆死」もある

ただ、ガチャというのは何が当たりで何がはずれかは引いた人間の価値観による。ソシャゲのガチャも、例えSSRを10枚抜きしようと、目当てのSRが入っていなければそれは「爆死」なのだ。

それと同じように、親が裕福で自分の教育に熱心なのが苦痛な人もいるだろう。実際「教育虐待」といって、子どもに過度な勉強や、親の望む進路を強制する虐待が問題になっており、それが原因での事件も起こっている。

しかも「親が自分に対してガチ勢過ぎて辛い」と悩みを吐露しても、「贅沢」と逆に責められ、余計孤立してしまう恐れもある。

このように「課金次第で結果が如実に変わる」「無課金でも努力の余地はあるけど『努力している廃課金』には勝てない」「何が当たりで何がハズレかは人によるなど」、現在の日本社会とソシャゲとの共通点は多く、「親ガチャ」という言葉はなかなか言い得て妙なのだが、良い言葉かというとやはりあまりよろしくない。

子どもの頃、自分が親に何か言われて傷つくことはあっても、親が自分の言葉に傷つくことはないと思いがちだが、親に近い年代になってみると「今でもツイッターで知らん奴に暴言を吐かれただけでバッチリ傷つくのだから、実の子どもに言われて傷つかないわけがないし、一生忘れないだろう」ということがわかる。

多分言ったことを後悔する日も来るだろうから、冗談でも親に「親ガチャ爆死だわ」とは言わない方がいい。

もし、返す刀で「こっちも子どもガチャ爆死したからもう1回引き直すわ」と言って両親が寝室に消えたら、「ステータスメンタル全振りの親」を引いたという意味で親ガチャ成功と言えるだろう。