岡田匡史氏のプロフィール

岡田匡史(おかだ・まさし)――1962年、愛知県出身。1989年に宇宙開発事業団(現:宇宙航空研究開発機構)入社。角田、種子島などを経て、液体ロケット開発(H-II、H-IIA)やJAXA全体のシステムズエンジニアリングの強化に従事。2015年4月よりH3ロケットプロジェクトマネージャを務め、2024年4月より現職(理事)。

  • 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の岡田匡史氏。取材は筑波宇宙センターで実施した
    (撮影:編集部)

H-IIの思い出

――岡田さんは1989年に宇宙開発事業団(NASDA)に入社されました。当時はH-IIロケットの開発が進んでいた時期にあたります。岡田さんとH-IIとの関わりを教えてください。

岡田匡史氏(以下、岡田):1989年というと、H-IIの初飛行の5年前です。学生時代はロケットエンジンの研究をしていたので、入社してからの5年間はLE-7エンジンの試験担当でした。角田宇宙センターでターボポンプの試験や、種子島宇宙センターの燃焼試験スタンドで実機型や認定型と呼ばれるエンジンの燃焼試験を担当していました。

そのころ、LE-7エンジンはまだトラブル続きで、試験の度にトラブルを起こすような状況でした。ターボポンプのタービン・ブレードにひびが入ったり、燃焼試験スタンドを吹き飛ばすぐらいの爆発を起こしたりもしました。打ち上げが2年後に迫ったタイミングでエンジンが爆発するという、信じられない状況も経験しました。非常に苦しい時期でした。

その後、苦難を乗り越え、1994年2月4日にH-II試験機1号機の打ち上げに成功しました。

当時、私は種子島に住んでいましたが、打ち上げ後間もなくNASDA本社のロケットグループに異動になりました。そこでH-II 8号機に向けた開発を任されました。

  • H-IIの第1段メイン・エンジン「LE-7」
    (C)鳥嶋真也

――H-II 8号機に向けて、どのような開発をされたのでしょうか。

岡田:当時、H-IIロケットの「高度化」と呼んでいた開発で、8号機で適用することを目標としていました。

高度化の大きな目的のひとつはコストダウンでした。H-IIは優れた性能をもったロケットでしたが、世界の水準からすると高価だったので、性能は維持したまま、初期のH-IIと比べて打ち上げコストを約2割削減することをめざしました。ロケットのあらゆるところを調べて、どうやったらコストダウンできるかを分析しました。

そして1996年に、H-IIAロケットのプロジェクトが始まりました。つまり、高度化H-IIは1機か2機だけ打ち上げて終わりとなってしまうわけです。そこで、いろいろ考えて、次のH-IIAにつながるような開発をしたほうがいいと考え、三菱重工さんとも相談し、段階的に改良をしていく「ブロックアップグレード」(高度化)のやり方を取り入れました。

その結果、H-II 8号機に、H-IIA用に開発した新しい第2段機体を使うことになりました。つまり、第2段をブロックアップグレードすることで、H-IIとH-IIAの間をつなげるようにしたのです。

――ブロックアップグレードというと、H3の今後の検討でも出てくる言葉ですね。

岡田:そうなんです。ですから、実は私にとっては懐かしい響きを持った言葉なんです。

その開発を1997年まで進めたあと、ドイツに研究者として留学することになりました。

1998年2月にH-II 5号機の打ち上げが失敗したので、その初動の対応をやったあと、ドイツに1年留学し、1999年8月に日本に戻ってきました。そして夢のようなドイツでの研究生活が覚めやらぬまま、11月に8号機が失敗したんですよ。

――ご自身が立ち上げて、留学前まで開発を担当していたロケットの失敗は、さぞショックも大きかったでしょう。

岡田:もうドイツ生活の余韻からすっかり覚めて、一気に現実に引き戻されました。そして、8号機の失敗の原因究明の中で、原因究明チーム事務局の主メンバーになって、さまざまな対応にあたりました。

  • H-IIロケット8号機の打ち上げ
    (C)JAXA

大事なメッセージを残してくれたH-II 8号機

H-II 8号機はすごく重要なメッセージを我々に残してくれました。根本原因は、LE-7エンジンのターボポンプのインデューサーという羽根車が折れてしまったことでした。それは突き詰めて言うと、物理現象をどこまで理解できていたのか、という話に帰着すると思います。物理現象を完全に理解できていない中でベストの設計をしていたのが、8号機までのインデューサーだったのでしょう。

たとえば、金属データです。当時、私たちは米国航空宇宙局(NASA)の文献にある金属の性質や疲労データを参照し、設計に活用していました。

そうしたデータを使うにあたっては、実際の条件などを踏まえて妥当な使い方になっているかがすごく大事なのですが、自分たちでデータを取って調べたものではないので、きっとよくわかっていなかったところもあったのでしょう。

つまり、メッセージのひとつは、自分たちでしっかりデータを持つこと、そして物理現象をわかりぬくということ。その大切さをこのときに思い知らされました。そこで、これ以来、当時の金属材料技術研究所(現:物質・材料研究機構)さんと共同で金属のデータベースを構築することになり、脈々と続いています。それがいま、すごく貴重な財産になっています。

もうひとつのメッセージは、インデューサーというエンジンの鍵になる部品に対して、いろんな物理の現象をわかった上で、ベストの設計をすることの大切さです。このとき、さまざまな専門家の方にアドバイスをもらったり、一緒に共同研究したりしながら、徹底的に研究をしたので、いまのインデューサーはものすごく良い出来になっています。

H-IIA以降、何の問題もなく使えているのは、このときに徹底的に研究をやったからです。

  • 海底から引き上げられた、H-II 8号機のLE-7エンジン
    (C)JAXA