【倉本 聰:富良野風話】半世紀

富良野に移住して半世紀に近くなる。僕も齢とったが、富良野も変わった。富良野を選んだきっかけは、当時この町が文化村構想というものを発表したからである。当時の富良野市長・髙松竹次氏が東京大学北海道演習林林長・高橋延清名誉教授の案を入れ、どれ位の広さの森にどの位の人間が住めば、森と人間が共生できるかという1つの実験的試みを起こし、市有林約4ヘクタールを開放し、文化人12世帯に限定して分譲した。

 当時の価格は、坪5000円から6000円。みだりに分割、分譲してはならぬ。簡単な道路をつけ、電気は引いてやる。水はその中を流れる二線沢なる沢の水を使え。家を建てる場所以外、木は伐ってはならぬ。家を囲う塀は立ててはならぬ。家の素材は原則、木を用い、外壁及び屋根の色彩は周囲の森に溶けこむ色を用いて、各自のインテリアは勝手だが、エクステリアには留意せよ。

 という、中々乱暴かつ痛快な条件がつけられていて、作曲家の八洲秀章氏、旭川の劇団「河」、僕、並びに八千草薫氏、俳優・田村亮氏、歌手・西郷輝彦氏、オペラ歌手・小柳才治氏、作家の佐野洋氏、画家の小野州一氏が名乗りをあげ、富良野文化村はスタートした。しかしそれから20年、鬼籍に入られる方、気を変えられる方、様々な事情で土地を手放される方が増え、村長を自任する僕は必死に、それらの土地の散逸を防ぐため、懸命にそれらを少しずつ買い集めたが、シナリオライターの資力には限度がある。そこへもってきて、かのニセコブームが富良野に及び、外資の攻勢がにわかに起こり、土地の値段が不意に急騰し、小分割分譲が始まるに及んで文化村の理想はガタガタに崩れつつある。

 幸か不幸か、隣接する西武グループのゴルフ場が閉鎖しその土地の半分34ヘクタールをあずかり森に還すことを約束して富良野自然塾を開設し、森の消失と闘っているわけだが。

 考えてもみて欲しい。

 筆一本で暮らしている、貧しい一人のシナリオライターが、北海道の森林の無惨な消失を、蟷螂の斧で防がんとしているのである。

 ヒトは食料以前に、酸素と水で生きている。その酸素と水を供給してくれているのは、森である。

 我々は1分間に17~18回、呼吸して命を保っている。だが我々は生まれ落ちた時から、誰にも教わらず、その行為をしているから、当たり前すぎてそのことを忘れている。

 株の上下も国家の紛争も、息をして初めて我々はそれを為している。それは我々が自然というもの、森というものから、意識せずに常に得ている神の恩恵に拠っている。

 そのことを諸氏は忘れてはおられまいか。

 地球という環境の上で、まず我々は命を保っている。我々の命は、会社からもらう給料や、こっそり溜めているヘソクリの上に成り立っているのではない。そのことをもう一度、よく考えて欲しいのである。

【倉本 聰:富良野風話】東京愛