派手なカーチェイスに使われたわけではなく、主人公が乗るクルマとして劇中に頻出したわけでもない「映画内に少しだけ登場したクルマ」が、観る者になぜか強い印象与える場合が稀にある。そのひとつが、1980年公開のホラー映画『シャイニング』に登場した黄色いフォルクスワーゲン「タイプ1」、いわゆる「ビートル」だろう。
ビートルってどんなクルマ?
『シャイニング』はスティーブン・キングの同名小説をスタンリー・キューブリックが映画化した名作ホラー。冬季は豪雪で閉鎖されるロッキー山脈にあるホテルの管理人職を得た小説家志望のジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)は、妻ウェンディーと心霊能力のある息子ダニーとともにホテルへやってくる。だがそこは、ジャックと同じ仕事をしていた前管理人が家族を殺し、自身も自害したいわくつきの場所。やがて氷雪に閉ざされて密室と化したホテルで、ジャックの精神状態はきわめて不安定になっていき……というようなお話。主演のジャック・ニコルソンがみせた「狂気」は、本当に恐ろしいものだった。
そんな映画の冒頭約3分間、いわゆる採用面接のためにジャックがロッキー山脈のホテルまで運転していく様子を描いた空撮シーンで、コロラド州の美しい風景、そして不穏な音楽とともに登場するのが「黄色いビートル」だ。
ご承知のとおり、ビートルことフォルクスワーゲン タイプ1は、1938年に量産型のプロトタイプが完成し、第二次世界大戦が終結した1945年から量産が始まった小型乗用車。空冷水平対向4気筒エンジンをリアに搭載する後輪駆動の4人乗り車で、経済性と耐久性の高さ、そして充実したアフターセールス体制によって世界中で大ヒットを記録。その累計生産台数は2,100万台以上に及んだ。
そしてビートルは、「高性能でありながら経済的な小型乗用車」という側面だけでなく、「人を幸せな気持ちにさせるハッピーで可愛いクルマ」としても、世界中のユーザーに愛された1台だった。1960年代には、北米を中心とするヒッピームーブメントを支えた若者たちに愛され、日本でも1970年代から80年代初頭にかけては、子どもたちの間で「1日に3台のビートルを見ると幸せになれる」という迷信というか都市伝説が大流行し、そのなかでも特に黄色いビートルは、人に最大級の幸せを与えてくれる(と信じられていた)クルマだった。
『シャイニング』のビートルから感じる不穏な空気
ジャック・ニコルソンが演じたジャック・トランスが住む米国に「黄色いビートルの迷信」はなかったと思われるが、それでもイエローのフォルクスワーゲン タイプ1は「幸せで充実した日々を送る、ごく普通の人物ないし家族」のメタファーとして、十分に機能するクルマだった。
そんな幸せの象徴をドライブするジャックは、ロッキー山脈へと向かう険しい山道をひとり、黄色いビートルで黙々と走る。もしもジャックが駆る黄色いビートルをアップで撮影していたならば、それは「普通に幸せな男の、普通のある日のワンシーン」にしか見えなかっただろう。
だがジャックが走るワインディングロードは断崖絶壁の、ちょっとハンドル操作を誤れば崖下に転落してしまいそうな道であることが、遠景の空撮動画を通じてわかってくる。そしてそこに厳かな、しかしどことなく恐怖を感じさせる劇伴が合わされることで、観る者は、この幸せな男にこれから降りかかってくるであろう災いを、セリフはひとつもないままに予感させられるのだ。
このときにジャック・ニコルソンが運転しているクルマが当時の普通のアメリカ製大衆車、例えばごく一般的なポンテアックのセダンか何かであったとしても、「ごく普通の男に迫り来る災い」を予感させることはできただろう。だが、それがいかにもピースフルな「黄色いビートル」であったことで、つまりは極端な対比構造により、恐怖の予感はセリフなしで、いや、ないからこそ、倍増するのだ。
そういう意味で『シャイニング』の冒頭に登場したフォルクスワーゲン タイプ1は、作品内でひと言も発しなかったものの、実はきわめて重要な役柄を演じた名バイプレイヤー――のような存在だったのかもしれない。




