フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


金銭へのおおらかさ

神戸製鋼所の実習生として横須賀の海軍工廠に派遣された石井茂吉は、1912年(大正元)11月にいくと結婚すると、鎌倉の大町に居をかまえた。家賃は月10円。2人で住むにはじゅうぶんな広さのある家で、いくは満足していたが、茂吉は一年も経たぬうちに「雪ノ下 [注1] によい家を見つけた」と、借りる契約を済ませてにこにこしながら帰宅した。家賃は13円。茂吉の月給30円の1割分にあたる3円も、家賃が高くなる。いくはすこし驚いた(大学出身者の初任給は当時、40~45円が一般的だったので、茂吉の給料は若干安めであった)。 [注2]

  • 神戸製鋼所時代の石井茂吉 (『石井茂吉と写真植字機』p.43より)

しかし茂吉は、実家でも世帯の切り盛りを任されていた妻の几帳面で苦労性なところを頼もしく思いつつも、「『至誠天通』だよ。誠意をつくして行動すれば、願いはいつか必ず天に通じる。それを忘れなければ、貯めようとしなくても、お金も自然に集まってくる」と平然と答えた。 [注3]
(しばらくすると茂吉は、今度は同じ鎌倉の小町の家に引っ越しを決めた。家は広くなり、家賃は9円に下がった)

茂吉は慎重なひとで、ものごとに取り組むときにはいつも念入りに事前準備や調査をした。ところがただ一点、金銭や物質生活に関しては鷹揚なところがあった。すこしあとの時代になるが、〈物を買いこむことが趣味であったらしく、いろいろな家庭用品を山と買いこんでは、さも満足げにニコニコと帰って来られる〉〈時にはこの趣味が高じて同類の品物をドエラク仕入れては家族を困らせたことも少なくなかったようであります〉というエピソードからも、茂吉のおおらかさが伝わってくる。 [注4]

茂吉は約2年にわたり、追浜工場にかよった。朝4時には起きて、5時半に追浜工場行きの専用通勤列車に乗る日々。結婚して3カ月目には、いくは第一子を身ごもった。1913年(大正2)7月21日、茂吉と同じ日にその子「丑二」は生まれたが、早産だったため、その日のうちに亡くなった。

1914年(大正3)5月になると、茂吉の実習期間は終わり、神戸の本社に復帰することになった。いくはこのとき次の子どもをおなかに宿し、妊娠7カ月目だったため、茂吉の実家に残ることになり、茂吉は単身、神戸に向かった。

軍需の増大とともに

神戸製鋼所の工場は、追浜の海軍工場に比べると町工場のような見た目であったが、 その実、目のまわるような忙しさだった。軍関係の揚弾機や砲架、水圧筒の素材や砲筒台仕上用施盤をはじめ、鉄道関係や船舶関係、民間受注品としても広範囲の鍛造品 [注5] などの製造を手がけていた。しかも茂吉が神戸に戻った時期に第一次世界大戦が勃発し、大型鍛造品の需要が急増した。特に船舶関係の注文はそのほとんどが神戸製鋼所に集中した。茂吉は精鋭の機械技師として、それらの設計・製作に取り組んだ。

神戸に戻るときにいくが身ごもっていた子どもは、1914年(大正3)8月に生まれ、「宣子(のぶこ)」と名づけられた。産後のいくの身体の回復を待ち、茂吉は10月なかば過ぎに妻子を神戸に呼び寄せた。浜松駅まで迎えにいく約束だったが汽車に乗り遅れ、「待ち合わせ場所を名古屋駅に変更したい」と車中のいくに電報を打った。

ところが早めに名古屋駅についた茂吉は、電車を待つあいだにベンチで居眠りをしてしまったのだ。いくたちを乗せた汽車が鳴らした汽笛の音でハッと目を覚ましたが、時すでに遅し。汽車は茂吉をホームに置いてけぼりにしたまま、名古屋駅を離れたところだった。幸いにも会社の同僚が案内してくれて、いくは自宅にたどり着くことができたが、このころの茂吉は、それほどまでに忙しい日々を送っていた。

いくと宣子を神戸に呼んだあとも、茂吉の仕事量は年々増えるばかりだった。朝6時に出勤し、夜は早くても21時、たいていは23時ごろに退社する毎日。責任者だった茂吉は、週に一度は徹夜作業もおこなわなくてはならなかった。

月給は、入社当初の30円から40円、50円と上がり、宣子が3歳になるころには70円にまで上がっていた。超過勤務手当や「社長のおぼしめし」という臨時収入を含めると、月の収入は結婚当時の3倍近くにもなっていた。茂吉は収入の半分をいくに渡し、残りの半分は同僚との付き合いや部下へのふるまいに使った。貯金もし、王子の両親に毎月いくらかずつ送金もできた。

そんな1917年(大正6)の初夏のこと。暑さはまだそれほどではないというのに、茂吉はひどく寝汗をかくようになった。朝6時にいつもどおりの時間に出勤するも、気分が悪くて半日で帰宅し、床につくことが増えた。茂吉には、おおきな不安が浮かんだ。7月、茂吉は大阪の原栄博士[注6]の病院を訪ね、診察を受けた。

診断結果は、茂吉の予想どおりだった。 「肺結核」。 1917年の当時では、特効薬のストレプトマイシンもまだ登場しておらず [注7] 、栄養摂取と新鮮な空気、安静ぐらいしか手の施しようのない、「死病」と恐れられる感染症だった。

(つづく)

◆本連載は隔週更新です。


[注1] 鎌倉市の地名。鶴岡八幡宮周辺の地域
[注2] 『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969) p.38
[注3] 「至誠通天」は中国の儒学者・孟子の言葉。茂吉はこれを座右の銘とし、生涯つらぬいた。
[注4] 『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)p.221 武藤巳之作の寄稿より
[注5] 鍛造:たんぞう。金属をたたいて成型する加工方法のこと。
[注6] 原栄:はら・さかえ。1879-1942
『肺病患者は如何に養生すべきか』(主婦之友社、1924)をはじめ、肺病関連の著書を多数もつ医学博士。
[注7] ストレプトマイシン:1944年、アメリカのワックスマン(Waksman) らが発見した抗生物質。結核の特効薬となった。
公益財団法人結核予防会 結核研究所「新・結核用語辞典」 (2022年10月13日参照)

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)

【資料協力】株式会社写研
※特記のない写真は筆者撮影