フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
成増の工場へ
約束から遅れること5カ月、大阪の信夫からようやく届いた3台の写真植字機は、不備だらけのものだった。つぎも、そのつぎも、送られてくる機械はどれもそのままでは注文先に出荷できそうにない品質のものだった。そうであれば「組み立てず、部品だけを送ってくれないか」と茂吉は手紙を送ったが、信夫からは「こちらでせっかく組み立てたものを東京で解体するから狂うのだ」という返事が届くのみだった。
茂吉は腹をくくった。大阪から届いた機械をすべて解体し、自分の手で直してから出荷することに決めた。
しかしもともと、茂吉の担当はレンズと文字盤、電気部品の取りつけのみだった。工作機械は不要のはずだったため、古材木を集めて焼け跡に建てた、建坪16坪の自宅でじゅうぶん作業ができるとかんがえていた。ところが、機械本体の組み立て作業をおこなうとなると、話がちがってくる。工場設備をもたない茂吉は、困ってしまった。
そんな茂吉に手を差し伸べてくれたのは、平凡社の社長・下中彌三郎だった。彼があらたに立ち上げた印刷会社・東京印書館は、この年、1947年 (昭和22) 8月8日に成増 (東京都板橋区) で操業を開始していた。茂吉が困っていることを知った下中は、その工場の一棟を茂吉に貸してくれたのだ。写植機は、印書館の「活字のない印刷工場」というコンセプトに不可欠な機械である。だからこそ下中は、茂吉への協力を申し出たのだろう。[注1]
つめかける写植担当者
大阪から届く機械の整備と組み立てをおこなうため、茂吉は息子の圭吉と、所員の八下田頼作、児玉尚根をつれて、大塚から成増までしばらく通った。健脚の茂吉は、その11kmの道のりを自転車で往復することもあったようだ。[注2] その状況を聞いて、写植機を注文した各印刷会社の写植担当者たちも、組み立ての手伝いに成増の工場につめかけてきた。彼らは組み立ては素人で、慣れぬ手つきでの作業となったが、どの印刷会社も戦災で機械不足だったから、とにかく一日も早く写植機を入手したい一心だった。
その顔ぶれは、凸版印刷の浅野長雅、東京印書館の佐藤行雄と本山豊三、大日本印刷の高相悌一、図書印刷の佐治為男など。高相をのぞく4人は、かつて茂吉により写真植字機研究所から派遣されたオペレーターだった。[注3]
4人のオペレーターはいずれも、派遣先の社員になっていた。彼らは茂吉の指示で動いたが、所属はあくまでも派遣先で、研究所の所員ではなかった。もと写真植字機研究所の所員だったとはいえ、他の会社の社員となった者たちである。そんな彼らが、こうして茂吉に忠実にしたがうのは、茂吉がつねに彼らのことに心を砕いていたからでもある。
たとえば浅野長雅は、戦時中にジャワに渡るときに茂吉の激励を受け、戦後帰国して凸版印刷板橋工場に入ると、大塚の茂吉のもとをよくたずねていた。茂吉は浅野が来ると、飼っていたヤギのエサにする草をとりに、巣鴨あたりまで一緒に国電の土手をさがし歩き、帰りにはイモやカボチャをリュックサックにいっぱいに詰めて、土産にもたせた。そうして草をとりながら、将来の写植についての計画や抱負を語り、敗戦の暗い世相から脱皮できるよう、浅野を力づけた。のちに浅野は、〈それらのことは、どれだけ仕事の上で勇気を与え助けになったか図りしれない、おかげで凸版板橋における写植は大きく伸びた〉とふりかえっている。[注4]
1947年 (昭和22) 4月にシベリアから復員した本山豊三は、帰途、「写植かレントゲンか。はたまた広大な北海道に行くか」と悩んだが、家に着いてみると浅野から手紙が届いていた。その手紙には、「元気な本山はいつ帰るか」と茂吉が待っていることが書かれていた。そしてこの年の秋、ちょうど茂吉が工場の一部を間借りしたころに、本山は東京印書館に勤めるようになったのだった。[注5]
混乱の再組み立て
このとき機械の解体・整備・組み立てに参加した佐治は、当時のことをこんなふうに語っている。佐治は、1940年 (昭和15) に写植機の納入とともに陸軍燃料廠に派遣され、終戦後は共同印刷、そして1947年 (昭和22) 9月に図書印刷へと移った人物だ。
〈敗戦で学校の教科書の内容が全く一新されたので、新教科書の発行が急がれていた。活字は十分入手できなかったし、写植機の導入が一日も早くと待たれていた。ようやく二十二年秋になって待望の機械が送られてきた。ところが、凸版印刷や大日本印刷、印書館へ予定していたその機械が、全然使いものにならぬ粗悪品であった。続いておくられて来たのも一台として満足なものはなかった。 わたくしたち各社の写植担当者は、すぐにでも機械がほしかったから、写研の組立工場へ毎日出張して、大阪から送られて来た機械をバラして組立てるのを手伝った。(中略) というのは、機械の形はしているものの部品がアベコベにつけてあったり、歯車の運動がうまくいかなかったり、散々なものであったから――。それを分解して一つ一つヤスリをかけ、研磨し直した。 これは実際のことだが、ある時六台送られて来た機械をバラして粗悪品を除いて一台ずつ組立てるとちょうど五台になり、一台が完全にスクラップということもあった〉[注6]
たいへんなおもいをして機械を仕上げ、さあこれを自分のいる図書印刷へ……と佐治がおもっていると、それを見越してか茂吉が静かな調子で語りかけたという。
「佐治くん、それは君のほうにはやれないよ。大日本印刷のほうが順番が先だからね」
落胆する佐治だったが、機械の納入を心待ちにして、組み立てを手伝いにきているのは各社おなじこと。注文の順番を待つ以外になかった。それにしても佐治の談話からは、当時のひどく混乱した様子が伝わってくる。
このころから1948年 (昭和23) にかけて、大阪の信夫あてに送られたとおもわれる、不足部品を至急送ってほしいという明細書もいくつか残っており、当時の混乱ぶりをあわせて物語っている。[注7]
こうして茂吉たちは、大阪から届いた写植機の解体と整備、再組み立てに明け暮れた。組み立てが済むと、最後にレンズと文字盤、電気部品をとりつけた。
ようやく戦後初の出荷ができたのは、同1947年 (昭和22) の12月に入ってからのことだった。そして年内にどうにか6台を注文先に出荷できるところまで、こぎつけたのだった。[注8]
(つづく)
※本連載は隔週更新となります。
次は5月19日更新予定です。
[注1] ここまではおもに、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.174、pp.185-186、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.50-51、下中弥三郎伝刊行会 編『下中弥三郎事典』平凡社、1965 p.265を参照
[注2] 清水隆文「最初で最後のリンゴの歌」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.204、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.186
[注3]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.186、本山豊三については、本人の手記である「昇仙峡の松よりも美しく」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.160-161 に、復員後、1947年 (昭和22) 秋に東京印書館に勤めるようになったと書かれているため、本稿では東京書籍ではなく、東京印書館の本山とした。
[注4] 浅野長雅「永遠に生きておいでの先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.193
[注5] 本山豊三「昇仙峡の松よりも美しく」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.160-161
[注6] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.187
[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.187-188
[注8] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.186-188、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.51
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
下中彌三郎伝刊行会 編『下中彌三郎事典』平凡社、1965
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ


