フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


雌伏のとき

1933年 (昭和8) 春に大阪で開業した写植店をわずか1年あまりで閉店した森澤信夫は、ひとまず兵庫県・明石にある妻・重子の実家に、妻子とともに身を寄せた。

妻の母はできた人で、収入が途絶えた信夫に「信夫さん、あせることはないよ」と声をかけ、「男が外出するのにお金に不自由してはいけない」と言って、いつも財布にこづかいを余分に入れてくれた。信夫は感激した。逆境にある身には、義母の心づかいがことのほかしみた。この恩義にむくいるためには、一日もはやく再起しなくては。そうはおもうものの、どういう仕事で再起するかが問題だった。

写植機のことは、あきらめていなかった。もっと優秀な機械がつくりたい。しかし資金がなくては、手も足も出ない。まずは、あまり資金をかけずにはじめられる仕事をしなくては。そこでおもいついたのが、ネジ工場だった。ネジなら、いつでも需要がある。どんな機械でもネジを使わないものはないし、製造も簡単だ。

信夫の計画を聞き、周囲は反対した。写真植字機という最先端の機械を開発していた信夫が、なにもネジづくりに転身することはないではないか、というのだ。しかし信夫はその反対を押し切り、1934年 (昭和9) 6月、大阪市西成区津守町でネジ工場をはじめた。機械3台、職人1人と見習い2人、そして信夫の、ささやかな工場だ。写植店を閉めたときに返送した写植機の代金として、茂吉から送られてきた3,000円を元手にした。信夫は工場とおなじ津守町に六畳、三畳の二間きりの四軒長屋のちいさな家を借りて、妻子とともに引っ越した。

  • 【信夫】あらたな道へ

    信夫が最初のネジ工場を始めた付近 (現・大阪市西成区北津守) 。(2023年1月19日撮影)

職人との食い違い

言うまでもなく信夫は、ネジにはまったくの素人だ。だから信夫は、経験十数年のベテラン職人を探してきた。彼の指導のもとで仕事を進めればよいとかんがえたのである。

「よろしくたのむよ」
「わかりました」

ところが、機械を動かしはじめると、どうも調子がおかしい。調整のしかたがちがうのではないか? 職人の仕事のやりかたも、どうも気に入らない。そこで信夫は彼に聞いた。

「私もやってみてよいか?」
「へえ。でも、素人衆にはあんじょういきませんで」
「まあ、やってみよう」

こうして、3台の機械のうち1台は職人が、残りの2台は信夫が使うことにした。信夫は自分なりの方法で機械を調整した。2、3日もすると、信夫が調整した機械は段違いにはやくなり、出来上がるネジの精度も、ベテラン職人がつくるものより、はるかによくなった。

それを見た職人は、怒り出した。

「あんたは嘘つきや。素人なんかであらへん。わてに恥をかかせる気で嘘ついたんか!」
「いや、嘘は言わん。正真正銘の素人や。ネジなんて、いままでつくったことがない。怒らんでくれ」

しかしカンカンに怒った職人は、信夫の言葉が耳に入らない。怒りにまかせて出ていくと、それきり来なくなってしまった。

信夫はしかたなく、2人の助手と一緒に、朝8時から夜遅くまで、油で真っ黒になりながら働いた。

台風襲来

信夫がネジ工場をはじめて、3カ月あまりが経った。信夫は見習いたちとたった3人で、ネジ製造にはげんでいた。

そんな1934年 (昭和9) 9月21日の朝、室戸岬から日本に上陸した強烈な台風が大阪を襲った。大阪での瞬間最大風速は60m/s以上、最低気圧約954hPa。大阪府内で死者1,812人、負傷者9,008人、行方不明76人もの被害を出した「室戸台風」である。

大阪上陸時は、朝の通勤通学の時間帯だった。午前8時前には激しい風が吹き、停電して電車が動かなくなった。外を歩くなどとんでもないほどの暴風雨だ。

低気圧と暴風によって、大阪湾には高潮がおきた。大阪市の低地は、海岸から4km以上の陸上まで浸水した。高潮は、大阪市西成区の信夫のネジ工場にも押し寄せた。流失こそまぬがれたものの、人間の肩までつかるほどの水に、工場の機械も製品も「ざぶつかり」となった。台風と高潮による大阪府の住宅および非住宅の全壊・半壊・流出は3万143戸、床上・床下浸水は15万8,547戸となった。[注1]

室戸台風は、海に、陸に、激烈な惨禍をもたらした。失われた命、住宅や工場、店舗、公営施設の浸水や倒壊、橋梁や道路の損害など、あまりに大きすぎる被害の数々。通信や運輸、電力などの諸機関もたちまち全活動を停止して、産業文化の大都市であった大阪を一瞬にして修羅場にしてしまった。[注2]

  • 室戸台風の被害の様子1。大阪市東成区市立プール高等女学校の倒壊の様子。2階建ての5教室ならびに職員室その他5室が倒壊。職員7名と生徒70名が下敷きになった

  • 室戸台風の被害の様子2。大阪市西淀川区布屋町神崎川堤防の決潰の様子。激流のため、堅固な堤防もひとたまりもなく押し流された

  • 室戸台風の被害の様子3。大阪市平野・天王寺間の電柱の被害。瓦、トタン、木片などが木の葉のように空中を飛び舞い、大阪府下全般にわたり通行人が負傷した
    上記3枚はいずれも『暴風水害状況写真・昭和九年九月二十一日』大阪府、1934年 (昭和9) 10月31日発行 1枚目p.8、2枚目 p.27、3枚目 p.52 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/file/1011476.html (2024年10月17日参照)

「いやはや散々な目にあった」

信夫はのちに振り返ってこう語るが、「その後は順調にゆき」と言葉を継げるほど、工場の復興は早かった。[注3] 心機一転、信夫は見習いたちに指導しながら、ふたたびネジづくりを始めた。できたネジは、西区立売堀にあったネジ専門のマルエム [注4] という問屋に持っていった。「これはよい品物だ。いくらでも持ってきなさい」。そう言われ、なんの苦労もなく商売のめどがついた。[注5]

「東京から引き揚げてきたときには、物質的にはなにもないに等しい状況だったが、写真植字機という得がたい研究を永らくやってきたこと、いかにしてものをつくるのかなど、多くを学んできたことが、自分でも気づかぬうちに『精度を高める』姿勢につながったのだろう。そうした学びを得たことは、百万の味方よりうれしいことだ」

信夫はその尊い経験を活かし、今度はネジ製造機の改良と能率向上につとめ、あたらしい機械の設計にも取りかかった。そうして次第によい機械もでき、業績もどんどん伸びていった。

工場をはじめてから2年経つか経たないかのうちに [注6] 機械は13台に増え、そのうち10台が自動ストップつきになって、一人でも作業できる状態になっていた。ネジ製品の品質は問屋筋で「最高級」といわれ、「大阪でもっとも優秀なネジをつくる工場」と評判になった。気がつけば、「いい品は森澤さんのところに行かねば手に入らない」と引く手あまたの状況になっていた。

津和親子の計画

ある日、津和五右衛門という男が信夫の工場をたずねてきた。津和は、信夫が大阪で写植店を開業したときに店を借りた浪速区元町の家主で、代々の大地主だ。雑穀商も営んでおり、たいへんな資産家だった。信夫の工場が評判になっているのを聞きつけてだろうか、津和は彼の商売ぶりを見にきたのだった。

〈温厚博学多才公平無私の紳士〉〈一般世人の信望厚し〉と評されていた津和は [注7]、工場の様子を見ると、「もし資金が入り用なときには、いつでも言ってきなさい」と信夫に伝えて帰っていった。

  • 大阪市浪速区の大地主だった津和五右衛門。1889年 (明治22) 生まれ。
    自治名誉職協会編『大阪府市名誉職大鑑』第2編、自治名誉職協会、1935、p.169 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1464716/1/97 (2024年10月19日参照)

しかしそのあと、津和はたびたび工場にやってくるようになった。しばらくすると、なにをおもったのか「長男の健三をこの工場で使ってくれないか」と頼みこんできた。津和といえば、大地主である。ふつうであれば「なぜ自分の工場に?」と不審におもうところだが、こういう面では至極単純な信夫は、ふたつ返事で承諾した。

健三は、もともとは津和 (五右衛門) の姉コマと津和九太郎のあいだに生まれた二男で、子どものなかった津和の養子に入った男だ。年齢は信夫のちょうど10歳下、1911年 (明治44) 生まれ。当時、20代なかばの若者だった。 [注8]

こうして健三は工員として勤めはじめたが、なにもできない資産家の息子で、使いものにならない。ところがまもなく、津和がまたやってきて、信夫に相談をもちかけた。

「森澤さん、どうだろう。あなたの仕事もだんだん発展しているし、品物の評判も上々だ。ここらでもう一段、工場を拡張してみないか。その資金は私が出そう。そして会社を合資会社に改編して、名目だけでもいいから、息子を重役にしてもらえまいか。このままだと、息子に嫁をもらうにも差し支えるから、ぜひそうしてくださらんか」

信夫も資金はほしかった。それに、1932年 (昭和7) 10月13日に生まれた長男・公雄に次いで、1935年 (昭和10) 4月15日には二男の嘉昭が生まれ、信夫も二児の父となっていた。親として、津和の気持ちもわからぬわけではなかった信夫は、津和の頼みを聞き入れることにした。

1936年 (昭和11) 3月7日、こうして合資会社津守ネジ製作所が設立された。業務内容は「ネジとナットの製作販売およびこれに付随する業務」。無限責任社員として津和健三が2,000円、おなじく森澤信夫が5,000円、有限責任社員として津和五右衛門が5,000円を出資したとして、『官報』にも掲載された。[注9]

次いで同1936年 (昭和11) 12月25日には、信夫がさらに4,000円を出資して出資金合計9,000円に、津和健三がさらに3,000円を出資して出資金合計5,000円に、津和五右衛門がさらに1,000円を出資して出資金を6,000円に変更した旨が『官報』に掲載されている。[注10]

健三は、重役になった。すると態度が一変し、「おれは重役だ」と大きな顔をするようになった。商売にも口をさしはさむようになり、「森澤の言うことばかり聞いておれん」と、信夫の言うことにことごとく反対を唱えるようになった。

「これは変だぞ」

信夫が気づいたときには、もう遅かった。

「こういう計画だったのか」

信夫はおもったが、なにしろ彼は、仕事のことで人から干渉を受けるのが嫌いなのだ。

「そんなに欲しいなら、くれてやる」

一気に興ざめした信夫は、そうかんがえた。

このころには、工場のねじ製造機も35台にまで増設されていた。

「君が来てから増設した12台と、借工場をくれてやろう」

健三に伝えると、信夫は未練もなく、みずから工場を出て行った。またもや裸になってしまったのだ。年も押しつまった1937年 (昭和12) 12月のことだった。[注11][注12]

(つづく)

出版社募集
本連載の書籍化に興味をお持ちいただける出版社の方がいらっしゃいましたら、メールにてご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。
雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 「大阪府に大きな被害をもたらした過去の気象災害」 https://www.data.jma.go.jp/osaka/kikou/disaster/disaster.html (2024年10月16日参照) 、森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.22-23

[注2] 『大阪市風水害誌』大阪市、1935年(昭和10年)、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1464282/1/4 p.1 (2024年10月16日参照)

[注3] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.23

[注4] 「マルエム」は、1927年 (昭和2) に田島留吉が独立開業した「丸ヱム製作所」だとおもわれる (1930年当時の所在地=大阪市西区立売堀南通4) 。帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』第10版、帝国秘密探偵社ほか、1934、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8312057/1/876 (2024年10月14日参照)、『中外金物新報』21(219) p.11、中外金物新報社、1930.9、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1569704/1/33 (2024年10月14日参照 )
株式会社丸ヱム製作所 https://www.maruemu.co.jp/

[注5] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.131

[注6] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.131 には〈最初の螺子 (筆者注:ねじ) 工場経験二年後には、彼の工場の機械は十三台にふえ、〉とあるが、その後の津和五右衛門が来訪して以降の出来事の時期を見るに、丸2年 (1936年6月) は経たない時期ではないかと推測した

[注7] 自治名誉職協会 編『大阪府市名誉職大鑑』第2編、自治名誉職協会、1935、p.169 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1464716/1/97 (2024年10月17日参照)、人事調査録刊行会 編『人事調査録』人事調査録刊行会、1935、ツ之部 p.8 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688437/1/598 (2024年10月17日参照)

[注8] 人事調査録刊行会 編『人事調査録』人事調査録刊行会、1935、ツ之部 p.8 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688437/1/598 (2024年10月17日参照)

[注9] 大蔵省印刷局 編『官報』1936年7月16日、日本マイクロ写真、昭和11年、p.30 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2959342/1/33 (2024年10月14日参照)

[注10] 大蔵省印刷局 編『官報』1937年3月9日、日本マイクロ写真、昭和12年 p.18 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2959535/1/27 (2024年10月14日参照)

[注11] 実は官報には、森澤信夫が合資会社津守ネジ製作所を退社した年月日は「昭和13年12月28日」と記されている。大蔵省印刷局 編『官報』1939年3月3日、日本マイクロ写真、昭和14年、p.20 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2960139/1/28 (2024年10月14日参照) 。しかし、モリサワ関連の資料にはいずれも、信夫が退社した時期は1937年 (昭和12) 12月と記されており、その後の出来事の年代との矛盾が生じてしまうため、本稿ではひとまず、モリサワ関連資料の記述にしたがった。

[注12] 本稿は森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.22-23、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.129-133、産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.234-237をもとに執筆した

【おもな参考文献】
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968
『大阪市風水害誌』大阪市、1935年(昭和10年)、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1464282/ (2024年10月16日参照)
『暴風水害状況写真・昭和九年九月二十一日』大阪府、1934年 (昭和9) 10月31日発行、国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/file/1011476.html (2024年10月17日参照)
自治名誉職協会編『大阪府市名誉職大鑑』第2編、自治名誉職協会、1935、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1464716/ (2024年10月17日参照)
人事調査録刊行会 編『人事調査録』人事調査録刊行会、1935、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688437/ (2024年10月17日参照)

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影