フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


はずれた歯車

茂吉と信夫、ふたりのあいだにできた溝は、埋まりようもなく深まっていった。

信夫はかんがえていた。そもそも、1924年 (大正13) 12月15日に契約書を交わしたとき、写真植字機が完成したら、印刷所を設立する約束だった (本連載 第26回「交わされた契約書」参照 )。しかし信夫が小型オフセット印刷機の開発にはげんでも (本連載 第37回「わずかな食いちがい」参照 )、茂吉はいっこうに印刷所を設立しようとはしなかった。今回は、自分が留守にしているあいだに、写真植字機を勝手に処分されてしまった。新規の写真植字機の注文は来ない。はたして自分は、写真植字機研究所にいるべきなのか。

茂吉は、契約書を結んだ当初は印刷所の設立に賛同していたものの、いざ写真植字機開発を始めてみて、そのかんがえをあらためていた。経済的に困窮するなかで、写真植字機もオフセット印刷機もどちらも開発するほどの資金はない。しかも、自分たちは印刷の素人である。数十年の実績をもった印刷会社が数多くあるなかで、写植機すら完成していないのに、印刷業界に入り込むことはむりなのではないか。

しかしそう思いつつも、寡黙な茂吉は積極的に自分のかんがえを信夫に伝えるわけではなかった。茂吉は「至誠通天――誠を至せば必ず天に通ずる」を信条としていた。 [注1] だから信夫に対しても、「いま伝えなくても、いずれわかる時がくるだろう」とおもい続けていた。

ひらめきをもち、おもいついたら即行動したい若き信夫と、熟考を重ね慎重に物事を進める茂吉。互いにないものをもつことが、ふたりを名コンビにしていたはずが、噛み合わなくなった歯車は、ずれていくいっぽうだった。

写真植字機の発案は自分だという自負をもち、負けん気の強い信夫が、茂吉の名だけが発明者として有名になっていく状況に耐えられなくなったのも、むりのないことだった。

写真植字機は、信夫にとって我が子のような存在である。その子を残して写真植字機研究所を去るのは、心が痛む。しかし注文が途絶えたいまこそ、自分の去るときではないか。 信夫は茂吉と袂を分かつ決意をした。

「石井さん。私は、大阪に行きます」

茂吉は残念におもったが、去る者は追わずの心境で、信夫の申し出のとおり、映画タイトル (字幕) 専用機1台と写真植字機1台を渡して送り出した。

信夫は、大阪で写植印字を引き受ける店をやろうとかんがえていた。郷里の両親から旅費を送ってもらうと、妻と1932年 (昭和7) 10月13日に生まれた長男・公雄とともに、悄然として東京を引き揚げ、大阪に向かった。1933年 (昭和8) 春のことだった。

  • 【茂吉と信夫】決裂

    映画タイトル (字幕) 専用写植機。1932年 (昭和7) 、第4回発明博覧会に出品した際の写真植字機研究所パンフレットより。『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 に復刻版が収録)

写真植字業を始めるも

1933年 (昭和8) 6月、『印刷雑誌』16(6) 昭和8年6月号 (印刷雑誌社) に、ちいさな記事が出た。「森澤氏が大阪に 写真植字機工場」と題されたその記事は、こんな内容だった。

〈石井茂吉氏と共に邦文写真植字機の発明者として知られた森澤允雄 (旧名信雄) 氏は、同発明も略ぼ完成したるを以て、関西方面に於る同機の利用宣伝のため、五月下旬大阪市浪花区元町一丁目七四六番地に独立、一工場を新設して、同機による一般写真植字業を開業した〉[注2]

  • 信夫が写真植字業をはじめたとおもわれるあたり。大阪メトロ御堂筋線なんば駅付近。(2023年1月19日撮影)

こうして写植屋を開業した信夫のもとには、ほどなくして大阪毎日新聞の活映部から映画タイトル (字幕) の印字注文が入った。注文は毎週継続して入ったため、当座をしのぐことができたが、1年ほどで活映部が廃止になってしまった。

これにともなって信夫の写植屋の仕事もぱったりとなくなってしまい、しかたなく信夫は店をたたむことにした。写真植字機とタイトル専用機、付属品一式は茂吉に返送した。代金として茂吉から3,000円が送られてきたので、郷里明石にある妻・重子の実家にひとまず身を寄せることにした。

もはや、信夫の手元に残ったものは、ほとんどなにもなかった。

「大阪の小さい店は失敗したが、日本ではじめて写真植字機をつくったのは自分なのだ。実用機を世に出したのは、自分たちが世界で一番早かったはずだ」[注3]

信夫はそう自分自身をなぐさめながら、再起のときをうかがった。[注4]

(つづく)

出版社募集
本連載の書籍化に興味をお持ちいただける出版社の方がいらっしゃいましたら、メールにてご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。
雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.124

[注2]『印刷雑誌』16(6)、印刷雑誌社、1933年6月 p.60
なお、森澤信夫は一時期、その名に「允雄 (のぶお)」の表記をもちいていたが、その詳細時期や理由は不明。通称として使用していたものとおもわれる (取材協力:モリサワ)

[注3] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.22

[注4] 本稿は森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.21-22、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.126-127、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.125-129をもとに執筆した。

【おもな参考文献】
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『印刷雑誌』16(6)、印刷雑誌社、1933年6月

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影