私が30年にわたる半導体業界での経験の中で見聞きした業界用語とそれにまつわる思い出を絡ませたコラムをしばらく続けている。今回は「Field(営業現場)」と「Factory(工場・本社)」を取り上げてみたい。なお、これらはあくまで外資系の半導体会社の日本法人での私の経験に限られた用語解釈であることを申し上げておきたい。

立場の違いで見方が変わる営業現場と工場・本社

それ自体は一般的な用語であるが使われる環境によって特定の意味を持ち、それが関係者にきちんと共有されている場合がある。

私は半導体ビジネスを外資系3社で30年以上経験したが、「Field(営業現場)とFactory(工場・本社)」という呼び名は各社で共通して使われていた。日本に営業拠点を持つ外資系の半導体会社にとって、Fieldは「各国の営業・マーケティング部隊と最小限のローカル業務・人事・経理等のサポート・ファンクション全体」を意味し、Factoryは「工場(Fab)・マネジメントを含む本社機能全体」を意味する。

こうした言い方をきちんと区別していて、現場営業の我々はよく「Factoryの頭でっかちの連中がまた訳の分からんことを言い出している」とか、本社からは「Fieldの連中は自分のカスタマーの要求ばかり突き付けてくる視野の狭い連中ばかりだ」などの言い方で常に緊張関係を伴って使われる。これらの言い方はお互いの立場の暗黙の了解を皆が共有するのに非常に役に立つ。立場上の暗黙の了解の中には下記のような要件が含まれている。

  • Fieldは各国に営業拠点を構え、カスタマーと市場に一番近い立場であるので、製品が売りあがる市場現場に責任を持ち、その企業の経済活動の根幹を担う重要な立場の人々である
  • Factoryは世界市場をにらみながらその企業の経済活動の基になる製品の開発・製造を担い、企業全体の方向性、戦略、存続繁栄に必要な重要な決定をする重要な立場の人々である

こうして整理すると立場の違いは明らかで、お互いに重要な役割を担っている事は重々認めてはいるが、これらの人々がいつも仲良くニコニコと仕事をしているわけではもちろんなく、目まぐるしい市場環境の変化の中で立場の違いにより大きな意見の相違が生まれるのが常である。

Fieldを代表する営業部とFactoryを代表する本社マーケティング

AMDの創業者であるジェリー・サンダースはもともとは半導体エンジニアとして仕事を始めた人物だが、その後営業・マーケティングの分野で頭角を現し、遂には母体であったFairchild社を飛び出して1969年にAMDを創業した。

AMDが2019年に50周年を迎えたことは皆さんご存知のことと思う。私は日本法人での営業・マーケティング職であったので主たる守備範囲はFieldであるが、長年働くうちにFactory側にも何度も足を運んだ。各国の営業拠点をFieldとし、工場を含む本社機能をFactoryとする通常のビジネスモデルでは下記のような暗黙の了解がある。

  • カスタマーに関する全ての責任はFieldにあり、製品に関する全ての責任・権限はFactoryにある。この中には価格・出荷量・新製品企画・マーケティング費用の割り振りなどFieldにとって非常に重要な事項が含まれている。
  • Fieldにとってみれば、売り上げ・マージンなどの会社の経営資源にとって最重要な事項の責任は押し付けられるが、価格決定の権限などはFactory側が全部握っている。
  • FieldからFactoryへのコンタクトは本社マーケティングに一本化されていて、Fieldは重大な品質問題の発生などの緊急事態以外を除いては本社マーケティングの頭越しにその裏にある本社の他の組織には直接コンタクトすることを基本的に禁止されている。この方式は情報の一本化と各国拠点への公平性という点で利点があるが、Fieldにとっては不満が残る。FieldとFactoryの関係は本社マーケティング担当者の力量に大きく左右される。
  • 結局はこうしたある程度の緊張関係が全体のオペレーションをうまく回している。

長年勤めているとFactory側のいろいろな組織の人間と知り合いになり、それらの人たちとの何気ない会話の中に営業側にとって重要な情報を得られることがある。

よくある話であるが、製品の出荷が注文通りになされないと、営業はカスタマーからの大きなプレッシャーにさらされる。そういった時に本社マーケティング担当に理由を問いただすと「全体のYield(歩留まり)が下がった」などと言う漠然とした答えではぐらかされてしまうことがある。しかしいろいろなFactoryルートで探ると、ある大口顧客から大きな追加注文が入り大量の出荷がそちらに振り向けられたなどという事もあった。あるいは、日本国内の新規大手顧客がAMDの製造キャパシティーについて不安を抱えていたので、当時のAMDの主力工場であったドレスデンから懇意にしていた工場長を日本に招いて顧客訪問を行った結果、安心した顧客からの注文につながったなどと言う話もあった。

  • Athlon

    AMDが1999年8月に発表したK7コアのAthlonはAMDの記念碑的製品 (筆者所蔵品)

飛行機で偶然隣り合わせたAMDのK7開発エンジニア

それはAMDがK7のリリースをする1年前くらいであったと思う。私はテキサス州オースティンへのフライトに乗っていた。座席でミーティングの資料に目を通していると、隣の席では若いエンジニアがかなり大きめなPCで何やら回路設計などの作業をしている。ふと見るとPCにはAMDのエンブレムがついているので話しかけた。

「やあ、君もAMDなのか。僕はAMDの日本支社から来た」と言うと。「僕はオースティンでCPUの設計部隊で回路設計をしているエンジニアだよ」との答えだ。通常ではまず会うことのない人間だ。私は思わず「K7の開発はうまくいっているかい? 営業現場では新製品のK7を首を長くして待っているのだが」、と言うとその若いエンジニアは「僕はK7のI/O部分の回路設計のみを担当しているので、全体のことは詳しくはわからないが、週2回のグループ・ミーティングでは設計部長が各部門の進捗状況を確かめていて、皆非常にモティベーションが高く設計は全体的にうまくいっていると思う」という事だった。

ふと窓の外を見るとちょうどコロラド川の上空を飛んでいて、朝日を受けたグランドキャニオン渓谷が真っ赤に染まっていた。2人でしばらくその絶景を眺めていたが、彼はぽつりと「きっと凄いマイクロプロセッサーができるだろう、各国の営業は忙しくなると思うよ、その時は日本にも行ってみたいな」と言い、にっこりするとまたPC画面の回路設計の仕事を続け始めた。

発表前の製品であったのでFieldに流される情報は非常に限られており、私は内心「K7の開発はうまくいっているのだろうか」という不安をいだいていたが、この若いエンジニアとの会話でK7の開発が順調であることを確信した。残念ながら彼が仕事で日本に来る機会はなかったが。

FieldとFactoryが1つの方向に向かって全力疾走した時に企業は大きな力を発揮する。

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。

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