医師として忙しい日々を過ごすなか、突然の難病で体が不自由になった経験を持つのが、東京慈恵会医科大学の高尾洋之先生です。当初は目だけしか動かせず、思考は正常なのに周囲の人に意思が伝えられない絶望を味わうことに。しかし、知人の見舞いをきっかけにiPadに標準搭載されている「スイッチコントロール」などのアクセシビリティ機能を知り、体のわずかな動きでiPadを操作してコミュニケーションが取れるようになりました。

会話ができるほどに回復した現在、自身の経験をもとに、病気やケガで体の自由が利かなくなって困っている人に、テクノロジーの力を用いて再びコミュニケーションが取れるようにする取り組みを進めています。

そんな高尾先生ですが、iPadやiPhoneをはじめとするApple製品には優れたアクセシビリティ機能が標準で備わっているにもかかわらず、多くの人が存在を知らないと指摘。「アクセシビリティは体が不自由で困っている本人や家族に希望をもたらす存在なのに、知らなければ諦めにつながってしまうんです」と、認知拡大への思いを語りました。

  • Appleでアクセシビリティ関連プログラムを統括するサラ・ハーリンガー氏(左)と、東京慈恵会医科大学の高尾洋之先生(右)

    Appleでアクセシビリティ関連プログラムを統括するサラ・ハーリンガー氏(左)と、東京慈恵会医科大学の高尾洋之先生(右)

iPadのアクセシビリティで意思疎通ができるように

東京慈恵会医科大学の脳神経外科医として日々忙しく働いていた高尾先生ですが、2018年夏に難病のギラン・バレー症候群を突然発症。ほどなくして意識を失い、再び意識を取り戻したのは実に4か月後でした。

奇跡的に意識回復を果たしたものの、体は不自由なまま。話すことも体を動かすこともできず、周りの人に意思を伝えられないのがとても困ったといいます。自身はしっかり意識があるのに、「高尾先生は脳にダメージを受けて何も理解できていないのだろう」と誤解されていたのがとても辛かったと振り返ります。

  • 「自分の意思を周囲に伝えられないのがとても辛かった」と振り返る高尾先生

    「自分の意思を周囲に伝えられないのがとても辛かった」と振り返る高尾先生

わずかに首が動くようになった時期、お見舞いに来たアクセシビリティの専門家である高橋宜盟さん(一般社団法人結ライフコミュニケーション研究所)のアドバイスでiPadのスイッチコントロールを導入したことが、高尾先生にとって大きな転機となりました。

首の近くに物理的なスイッチを置き、首のわずかな動きを信号に変換してiPadに伝達し、iPadのアクセシビリティ機能を活用してアプリの起動や選択などができるように。これで、周囲に意思の表示ができるようになったわけです。

特定の電話番号からのFaceTimeを自動着信して家族と会話したり、LINEでメッセージを送信できるなど、アクセシビリティの活用で一人でできることが拡大。さらに回復して声が出せるようになると、音声コントロールを利用してできることが増えました。

アクセシビリティやテクノロジーは患者や家族の希望となる

高尾先生自身がテクノロジーに救われた経験から、現在は体に障害を持つ人や家族にアクセシビリティの活用を広めるための活動に取り組んでいます。

全盲で体がほとんど動かない難病の女の子には、iPadの画面の内容を読み上げるVoiceOverとスイッチコントロールを組み合わせることで、家族と会話ができる環境を整えました。母親は「アクセシビリティと出会えたから、本人も家族も生きる意欲が湧いた」と喜んだそうです。

脊髄炎で顔しか動かせない患者には、iPadの内蔵カメラをスイッチとして利用し、口を開ける動作でiPadを操作できるようにカスタマイズ。患者さんはわずか20分で操作を習得し、日々活用しているそうです。

2年間コミュニケーションを取るすべを持たなかった男性は、脇の下でスイッチを押す練習を重ねることで、LINEでメッセージを送れるように。神経系の難病を持つ男の子も、iPadのスイッチコントロールを用いて意思を伝えられるようになりました。

高尾先生は「アクセシビリティを活用することで、意思疎通が不可能と思われていた人たちがコミュニケーション能力を取り戻し、生きる意欲を持てるようになりました。アクセシビリティやテクノロジーは単なるツールではなく、希望そのものなのです」と語ります。

アクセシビリティの存在や内容を多くの人に知ってほしい

高尾先生は、iPadをはじめとするApple製品は完成度の高いアクセシビリティ機能が充実しており、しかも追加の特別なソフトウェアではなく最初からOSに内蔵されている点を高く評価しています。柔軟なカスタマイズが可能で、個々の患者の症状や家族のニーズに合わせた活用ができることもメリットとして挙げました。

しかし、高尾先生は「ふだん使っているiPadやiPhoneに優れたアクセシビリティ機能が標準で備わっていて、いろいろなことができることを多くの人が知らない」ことをしきりに残念がっていました。「アクセシビリティの存在を知らなければ、患者本人や家族のあきらめにつながってしまいます。何ができるか、どのような可能性があるかを知らないと、希望を捨ててしまうことになりかねないのです」と訴えます。

さらに「アクセシビリティは障害を持つ人のための機能」と認識されがちな点も懸念を示しました。「アクセシビリティは決して障害者のためのものではなく、高齢者やデジタルに不慣れな人など、困っているすべての人に役立つ存在です。残念ながら、多くの人にはその本質が伝わっていません」(高尾先生)

患者や家族だけでなく、医療従事者や社会福祉のプロでさえその可能性を十分に理解していないとも指摘します。「社会全体がアクセシビリティについて知ることは、自分自身や家族、周りの大切な人が突然の病気や事故に見舞われた際の備えになります」(高尾先生)

このような素晴らしい機能を備えながら、iPadやiPhoneは公的なサポートが遅れている現状も高尾先生は憂慮します。専門の医療機器とは異なり、iPadのような汎用デバイスは嗜好品とみなされ、保険など公的補助の対象外となってしまうからです。すべて自己負担となるため、医療や介護の現場での導入がなかなか進まないといいます。

高尾先生は、自身の体験をさまざまな場で語ることで、アクセシビリティやテクノロジーを活用するという発想を社会に広く根付かせたいと語ります。

Appleは医療や介護の現場で支援や助成が受けられるよう働きかけている

Appleは、1985年に最初の障害者向けオフィスを開設して以来、40年にわたりこの分野に率先して取り組んできました。Appleでアクセシビリティ関連プログラムを統括する、Apple グローバルアクセシビリティ ポリシー&イニシアティブ シニアディレクターのサラ・ハーリンガー氏は「アクセシビリティは基本的な人権。単なる法令遵守のためのチェックボックスとは考えていません」とまず語ります。

さらに「アクセシビリティの本質はカスタマイズであり、視覚、聴覚、身体機能、認知など、一人ひとり異なるニーズに合わせてデバイスを最適化できます。テクノロジーは、すべての人に役立ってこそ最高の存在となります。OSに標準搭載されているAppleのアクセシビリティは一部の人だけでなく、誰もが使えるテクノロジーを目指しています」とサラ・ハーリンガー氏は解説します。

  • Appleのアクセシビリティの取り組みを高尾先生に伝えるサラ・ハーリンガー氏

    Appleのアクセシビリティの取り組みを高尾先生に伝えるサラ・ハーリンガー氏

サラ・ハーリンガー氏は、アクセシビリティのさらなる充実に向け、ユーザー、デベロッパー、関係機関に対してさまざまな働きかけをしているとコメントしました。

ユーザーには「accessibility@apple.com」のメールアドレスを公開し、日本語を含む多言語での意見を受け付け、寄せられた意見は本社のエンジニアリング部門に伝える仕組みを整えているそう。デベロッパーには、アクセシビリティを考慮したアプリ開発を促進するためのツールの提供に加え、啓蒙活動を実施しています。

さらに、iPadなどのApple製デバイスが強力な支援ツールであることを説明し、高価な専用機器と同様の支援や助成が受けられるよう、関係機関に働きかけを行っているそうです。

Apple製品のアクセシビリティを試してみよう

ふだんiPhoneを使いこなしていても、アクセシビリティ関係はまったく触れたことがない…という人は多いのでは? 筆者もその1人です。

健常者はふだん使わなくて済む機能ですが、自身や家族、大切な人の体が不自由になった時、アクセシビリティについて知っていれば必ず役に立つでしょう。ちょっとした時間を使って、手持ちのiPhoneやiPadなどのアクセシビリティにどのような機能があるのかを確認しつつ、実際に試してみませんか。