富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。この連載では、日本のパソコン産業を支え、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。

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ビジネス向け16ビットパソコン「FM-16β」

1984年12月21日から出荷を開始したのが、ビジネス向け16ビットパソコン「FM-16β」だ。8ビットパソコンでは後発ながら「8ビット御三家」の一角を担っていた富士通だが、16ビットパソコンでは1982年10月発売のNEC「PC-9800シリーズ」に、すでに圧倒的な差をつけられていた。起死回生を狙って投入したFM-16βも結果から見れば、残念ながら「98(キューハチ)の牙城」は崩せなかった。

  • 1984年12月に発売となった富士通のビジネス向け16ビットパソコン「FM-16β」

    1984年12月に発売となった富士通のビジネス向け16ビットパソコン「FM-16β」(FM-16βのプレスリリースから)

とはいえ、当時の富士通にとって、FM-16βに賭ける意気込みは並大抵のものではなかった。出荷計画は年間6万台。2年後には月産1万台を目指すことを表明したことからも、それは見て取れる。

CPUにはインテルの「i80186(8MHz)」を採用し、同じくインテルの16ビットCPU「i8088」とマシンコードレベルでの互換性を維持。8ビット機のビジネスパソコン「FM-11BS」用のアプリケーションを高速動作できるようにしたほか、サブCPU「MBL68B09E」の搭載や、グラフィック処理に専用のLSIを開発して線の描画速度を従来比30倍に向上した。

OSには、「FACOM 9450」で搭載していた富士通独自のOSではなく、米デジタルリサーチのCP/M-86を採用。メインメモリは512KBを標準実装し、最大1MBまで搭載できた。さらに、2HD(1MB)対応の5インチ・フロッピーディスクドライブ(以下、FDD)×2基を搭載したモデルと、FDD×1基と10MB HDDを搭載したモデルを用意。「わかりやすく、誰にでも使え、本当に仕事に役立つパソコンが欲しいというユーザーニーズに応えた、本格的なビジネスパソコン」と位置づけた。

特にこだわったのが日本語処理の機能だ。ワープロ並みの日本語入力をOSレベルでサポートすることで、CP/M-86向けに開発されたすべてのアプリケーションにおいて、この日本語処理機能を共通利用できるようにしている。画面上の任意の位置で変換、リアルタイム単語登録、最大5個までの複数辞書を使えるようにしたほか、JIS第二水準の漢字ROMを標準で実装。さらに、パソコンでは初めて親指シフトキーボードモデルも選択できるようにした。

加えて製品発表前の1984年10月上旬には、約100台の開発機をソフトメーカーに無償で提供。発売時点で300種類のアプリケーション開発意向を取り付け、発売から2カ月後には約200種類の対応ソフトウェアが発売された。だがこの時点で、NECのPC-9800シリーズには約700本のアプリケーションがそろい、その差は歴然だった。

現代のモバイルPCへつながる「FM16π」

  • 富士通が初めてリリースしたポータブルパソコン「FM16π」は、富士通がその後に手がけてきたノートパソコン、モバイルパソコンの祖ともいえる

なお、FM-16βの発売前には、米国市場向けに「FM-16S」というパソコンを発売。1984年9月に開催したデータショウ '84には、「ヘレン」のコードネームで開発していたポータブルパソコンを参考展示した。これはのちに「FM16π」として1985年4月16日に発表。山本卓眞社長(当時)自らが会見に出席し、「ポケコンとデスクトップパソコンの中間を狙った新たなポータビリティを持ったパソコンとして、パソコン市場全体の拡大につながる」と期待を寄せた。

そのFM16πは、富士通初のポータブルパソコン。幅297mm・奥行き210mmというA4サイズで、重さは2.9kg。当時としては大幅な軽量化を実現していた。「オフィスで一定の場所に留まらず、一人ひとりの机の上でワープロ業務や伝票発行なども手軽にでき、使用後は机の引き出しや、机の下にもしまっておける。外出先での業務には8ビットハンディコンピュータやハンドヘルドターミナルが利用されていたが、FM-16πであれば、記憶容量不足や、不十分な日本語処理能力といった課題を解決でき、用途を広げられる」とした。

  • FM16πのプレスリリースから。机の上に置いたり小脇に抱えたりしたときの雰囲気は、最新のノートパソコンとそれほど変わらない

富士通のパソコン史における重要な出来事

ここで特筆しておきたいのが、1984年12月3日に行われた「FM-16β 新製品発表会見」の様子だ。

FM-16βは富士通の半導体事業部門が開発したパソコンであり、半導体事業を統括していた安福眞民専務取締役(当時)が会見に出席。そして実は、電算機事業部門を担当する梅津睦郎取締役(当時)も同席していた。

富士通では、FM-8を源流とする半導体部門が開発したパソコンと、FACOM 9450による電算機部門が開発していたパソコンは、別々の事業に位置づけられていたが、この会見で2つの事業部門の担当役員が初めて同席。富士通全社をあげて、NECのPC-9800シリーズを追随する姿勢を強調してみせたのだ。

これにより、これまでの「FMショップ会」を通じた販売に加えて、メインフレームのFACOM Mシリーズなどを販売していたシステム営業部門でも、半導体部門が開発したパソコンを販売することになった。全国160カ所の保守拠点を活用した定期点検、スポット保守、訪問保守を実施する体制も構築したのだ。この取り組みは、1985年4月21日に実施されたパソコン事業の組織再編へとつながっている。

再編の概要は、電子デバイス事業本部が所管していたFMシリーズの事業を、開発・生産については電算機事業本部に移管し、パーソナル機器事業部を新設。販売は、電算機事業部門で生まれたFACOM 9450とともに、新設したOA営業推進本部に移した。海外向けビジネスは海外営業本部の担当となった。

富士通は通信機でスタートした企業だが、このときの主力事業はすでに電算機(コンピュータ)。また、半導体事業はもともと規模が小さい部門であったことを考えると、この組織再編は、富士通がパソコンを主力事業部門が扱う製品へと「格上げ」したと見ることもできるだろう。富士通のパソコン事業の歴史において、重要な一歩だったといえる出来事だった。

だが、このときの経営判断は、社内では大きな波紋を呼んだ。もともとは半導体部門でスタートさせたパソコン事業ではあるものの、性能向上や機能進化によって企業利用が本格化するなかで、その領域を得意として大型コンピュータ事業で成果をあげていた電算機部門への移管は、当然の流れと見ることができる。

当時、パソコン事業をゼロから育ててきた半導体部門にしてみれば、到底、納得できるものではなかった。半導体部門の現場からすると、一度、パソコン事業を半導体部門に委ねる決定をした経営層が、成長の兆しが見えた途端にその事業を取り上げ、電算機部門に事業を移管するという「都合のいい判断」にも受け取れたのだ。

社内で何度も議論が繰り返された結果、それまでのパソコン開発で主力となっていた技術者たちは電算機部門へは異動せず、電算機部門では新たな体制でパソコンを開発することになった。半導体部門が開発したパソコンはFM-16βやFM-16πが最後となり、それ以降のFMシリーズの開発は、電算機部門が様々な部門から人員をかき集めて、新体制でパソコンづくりを開始せざるを得なかったのだ。

このとき、電算機事業の主力であったメインフレーム(FACOMシリーズ)の開発に携わっていた電算機第一技術部の技術者だけでなく、ワープロ専用機(OASYS)を開発していた端末機事業部の技術者、音声や画像などのマルチメディア開発を行っていた複合システム技術部の技術者などが集められ、パソコンの開発が再スタートすることになった。FMシリーズの系譜は、ここで一度リセットされたともいえるだろう。

ここでも課題が発生した。急ごしらえで集められた技術者のなかには、メインフレームから見ればまだ「おもちゃ」の域を出なかったパソコンの開発を余儀なくされた人間もいた。メインフレーム技術者から不満が噴出したり、これまでの開発を終了して組織まるごとパソコン開発に移行することになった技術者もおり、突然の異動に異を唱える声もあった。

パソコン開発チームが設置された場所は、東京都稲城市の南多摩工場。川崎市の本社勤務のメインフレーム技術者からすれば、名実ともに「都落ち」ともいえる気持ちにもなっただろう。技術者の士気をどうあげるかといったことが当初の大きな課題だったわけだ。

ただ、ライバルは明確だった。それは先行するNECのPC-9800シリーズである。「打倒キューハチ」に向けて、技術者たちの気持ちは統一され、開発に拍車がかかるのにはそれほど時間は要さなかった。なお、電算機部門に事業が移行してから、富士通のパソコンブランドはFMRシリーズへと変更されることになった。

総力戦へ

FM-16βおよびFM16πではNECのPC-9800シリーズを崩せなかった富士通は、1987年1月20日に、新たなビジネスパソコンとして「FMRシリーズ」を発表。3機種6モデルを一斉に披露し、上位モデルのCPUにはIntelのi80286(8MHz)を搭載しつつ、全モデルのOSにMS-DOS V3.1を採用した。年間10万台の販売計画を打ち出す。

  • FMRシリーズの中で、高解像度表示に対応したモデルの「FMR-60HX」。当時は「ハイレゾ機」(ハイレゾリューション機)とも呼ばれた

FMRシリーズにおいて、富士通はさらなる「総力戦」でNECに挑む。それは、F6650エミュレータといった富士通のメインフレームとのネットワーク連携機能や、FM-16βのソフトウェア資産の継承だけでなく、専用ワープロ機「OASYS」で培った日本語機能を融合したことだ。MS-DOS上の日本語入力システムに「OASYSかな漢字変換(OAK)」を採用するとともに、OASYS100シリーズと操作互換・データ互換を実現した日本語ワープロソフト「FM-OASYS」を提供。もちろん、富士通独自の親指シフトキーボードも選択できるようにした。

また、富士通は1986年12月に事業体制をさらに再編。「FMRは半導体部門の成果を引き継ぎながら、電算機部門、OASYS部門が一体となって開発した製品となった」と、パソコン事業を統括していた梅津取締役(当時)は語っていた。この組織再編によって、OASYS生みの親である神田泰典氏も、パーソナル機器事業部長(当時)としてFMRシリーズの開発に携わり、OASYS文化をパソコンに融合させる役割を自ら担ったのだ。

  • FMRシリーズの中核マシンだった「FMR-50」系列。デスクトップ機のほか、ラップトップタイプやノートブックタイプもあった

ここでは「FMJOIN(エフエムジョイン)」と呼ぶコンセプトを発表。メインフレームや日本語ワープロ専用機、ワークステーション(ミニコン)で培った異なる資産と文化を、ビジネスの場で使いやすく統一していくために、パソコン上でメニュー方式による統一した操作性を実現。合わせて、FACOM 9450シリーズやOASYSシリーズ、FMシリーズのアプリケーションのデータ連携も実現した。まさに富士通の総力戦ともいえる内容で、NECに対抗しようとしたわけだ。

第1弾として発表されたFMRシリーズの3機種6モデルのうち、話題を集めたのがFMR-30である。「逆T字型」と呼ぶデザインの本体は、FDDタイプでは幅330mm・奥行き239mmと、「週刊誌を少し大きくしたサイズ」(富士通)を達成。液晶ディスプレイや3.5インチFDD、拡張スロットなどを本体に一体化していた。この省スペース設計は、日本のオフィス環境を考慮したものとし、卓上型という新たな提案でもあった。なお、FMRシリーズは富士通からのOEMによって、松下電器産業(現・パナソニック)が同じ仕様のパソコンとして「Panacom Mシリーズ」を発売していた経緯がある。

  • FMR-30は、液晶ディスプレイ一体型のデスクトップ機

  • ノートブックタイプの「FMR-CARD」には1kgを切ったモデルもあり、親指シフトキーボードも選べた

だが、富士通がこれだけの総力戦を仕掛けても、NECの後塵を拝した状況は変わらなかった。富士通の会長と社長を務めた山本正已シニアアドバイザーは、「富士通のDNAは一番になること。メインフレームでもオフコンでも1位を取った富士通は、パソコンでも一番にならないと気にくわないという気質がある」と笑う。富士通のナンバーワンへ向かう挑戦はその後も続いていく。