「微量からの発想が重要」――こうした考えの下、京都薬科大学 薬学部 代謝分析学分野 安井 裕之 教授は、ヒトの体内にわずかながら存在している生体金属に着目し、病気の予防や治療に役立てようと研究を進めています。2020年には血液中の亜鉛の濃度とCOVID-19重症化との関連を国際学術雑誌に報告(以下のDOIから論文(英文)の閲覧とダウンロードが可能です)するなど、体内に存在する微量な金属元素が私たちの健康に深く関わっていることを数々の研究から明らかにしてきました。

遺伝子を対象としたゲノミクス、タンパク質に着目したプロテオミクス、代謝物に焦点を当てたメタボロミクスなど、生体中に存在する分子を網羅的に解析するオミクス研究が盛り上がるなか、「総体が微量な成分だからといって、生命にとって重要な生体因子の存在を見逃すわけにはいかない」と、生体金属に関わる全ての物質を扱うメタロミクス研究に力を入れる安井教授。今回は、微量金属元素と私たちの身体の関わりや、研究で実現したい世界観についてお聞きしました。

  • 京都薬科大学 薬学部 安井 裕之 教授

微量ながらも健康維持に重要なバイオメタル

ヒトが生きていくためには、三大栄養素として知られるタンパク質・脂質・糖質を多量に摂取するだけでなく、ビタミン類やミネラル(無機元素)といった栄養素も少量ながら摂る必要があります。私たちの健康を保つのに不可欠な無機元素のうち、亜鉛、銅、鉄、クロム、マンガン、モリブデン、コバルトといった金属元素は、体内に微量で存在すれば良いとされています。厚生労働省が公表する「日本人の食事摂取基準(2020年版)」では、鉄、マンガン、亜鉛の推奨摂取量は成人で1日あたりmg単位、それ以外の金属は1日あたり1 mg以下とされており、カリウムが1日あたり2000-2500 mg、ナトリウムが600 mgであることを考えると、非常に少ないといえます。

しかしながら、これらの「生体微量金属元素(バイオメタル)」は、恒常性の維持に必要な生体内の酸化還元反応や加水分解反応、情報伝達機構や電子伝達系、それに関与するタンパク質、酵素、受容体、ホルモンに必要不可欠なもので、欠乏や過剰摂取により疾患の原因になるともいわれています。

たとえば、鉄が不足すると動悸や息切れといった貧血の症状を引き起こすことは、昔からよく知られています。鉄は、血液中の赤血球に含まれるヘモグロビンという酸素運搬タンパク質にもヘムという化学形態で結合している重要な補因子です。ヘモグロビンは、酸素分子と直接結合する鉄イオンの特異な化学的性質を利用して、肺から取り込まれた酸素を体中へ運んでいます。そのため、タンパク質のヘモグロビンが十分に作られていても、鉄が体内から不足するだけで酸素を運搬できなくなり、上記のような鉄欠乏性貧血の症状につながってしまうのです。

また、鉄欠乏性貧血には、銅や亜鉛も関係しているといわれています。銅タンパク質であり鉄イオンの酸化還元反応を制御するセルロプラスミンは、鉄イオンの搬送やヘモグロビンへの供給に関わっているため、たとえ食物中から鉄が十分に供給されていたとしても、銅が不足している場合は、ヘムが結合したヘモグロビンが十分につくられず貧血症状が現れることがあります。さらに、銅イオンと亜鉛イオンの小腸からの吸収は連関しており、亜鉛を過剰摂取するとメタロチオネインという金属結合タンパク質が小腸で増えすぎてしまい、銅イオンもメタロチオネインに強く結合するために銅が欠乏してしまい、結果として鉄欠乏性貧血につながる可能性も指摘されています。

こうした微量金属の元素間相互作用の仕組みはほんの一例ではありますが、各種バイオメタルが緻密かつ複雑に関連し合うことで、私たちの健康が保たれていることがわかるのではないでしょうか。安井教授は「微量でもこれらの金属元素が必要量存在していなければ活躍できない生体分子は多くあります。微量だからといって、見過ごしていいわけではありません。バイオメタルには、未知のことがまだまだ多く残されているのです」と語ります。

  • 安井 裕之 教授

    京都薬科大学 薬学部
    分析薬科学系 代謝分析学分野
    安井 裕之 教授

バイオメタルを網羅的に測定すれば、病気の早期診断が可能になる?

安井教授は現在、がんや生活習慣病などの予防と治療に向け、医薬品としてのバイオメタルの基礎研究を進めるほか、バイオメタルを分析することによる早期疾患診断に向けた研究にも取り組んでいます。

バイオメタルは、病気になってしまった際に健常時とは異なる組織分布や濃度変化をとることが知られており、亜鉛や銅、鉄、セレンなどの血中濃度は実際に医療現場の診断で用いられることがあります。しかし、安井教授は、現状について「通常のベースラインと比べて多いか少ないかが見られているだけで、なぜそのバイオメタルが増えているのか、あるいは減っているのか、その詳細までは直ぐにはわからない」といった課題があるとしたうえで、「バイオメタルを一斉分析できるようにして、経時的変化を追い、全体像を明らかにしていくことが重要」と指摘します。

安井教授によると、バイオメタルは、健康を損ない病気になる前の段階にあたる「未病」の状態で異常値を示しはじめるといいます。そこで安井教授は、アジレント・テクノロジー(以下、アジレント)が提供する誘導結合プラズマ質量分析計(ICP-MS)をはじめとする分析機器を駆使して、数十種類のバイオメタルを一斉に検出し、その変動により疾患の兆候を診断する方法の検討を進めています。この方法が確立すれば、既存の検査では判別が難しいより早期の診断が可能になるだけでなく、発症後の治療にも役立てていくことができます。

「病気の発症前にバイオメタルが異常を示していることがわかった場合、食事等を最新の栄養学の知見に基づいて工夫すれば予防につなげることができるかもしれません。バイオメタルの破綻によって病気が引き起こされている場合は、分析結果に伴いバイオメタルを制御するような介入や治療を行うことで、病気の進行を遅らせたり、症状を抑えたりすることもできるようになるかもしれません。いずれにしても、バイオメタルを網羅的かつ経時的に分析していくことが重要です。食事や医薬品の投与後にバイオメタルがどのように変化するかを定量的に見ていけば、医薬品に対する生体反応がバイオメタルとどのように連動しているか、医薬品の治療効果をより高めるにはバイオメタルの状態をどのように調整しておけばいいかなど、さまざまなことが明らかになると考えています」(安井教授)

  • 臨床メタローム

研究分野や産学の垣根を超えて、メタロミクス研究の裾野を広げる

「将来的には、健常-未病-病態の診断と予防医学を実現する『ヒューマンメタロミクス』の確立を目指しています。たとえば、人間ドックにバイオメタルの網羅的分析を加えることができれば、病気の診断・予防につなげていくことができます。研究活動の成果によって世界平和と人類福祉に貢献することが、私のモットーです」――安井教授は、自身の研究の展望についてこう語ります。

こうした安井教授のビジョン実現に向けては、バイオメタルの一斉分析法の確立、分析精度の向上などが必要であり、ICP-MSをはじめ多くの分析機器を提供するアジレントも大いに貢献できるはずです。安井教授もアジレントに対して「分析科学というサイエンスの行き着く先は、方法論や装置開発といった『テクノロジー』の領域で、究極的には、オートメーション化によってビギナーでもプロと同じ測定結果を出せるような世界観が理想です。簡単なトレーニングを受けるだけで万人が分析できるような、究極のテクノロジーをつくっていただければ」と期待を寄せています。

テクノロジーのさらなる発展は、アジレント1社だけでは実現できません。アカデミアと民間企業といった垣根、分野間、企業間の壁を超えて、さまざまなプレイヤーが連携していくことが重要です。もちろん、安井教授は引き続き、テクノロジーを支えるためのサイエンス領域をこれからも担っていきます。

「バイオメタルを扱うメタロミクスの領域では、分析手法や装置の発展はもちろん、医学や薬学の知見などといったヒトに関する研究材料が揃いつつあります。近年では、バイオメタルを含めた分子栄養学の知見をスポーツ科学に活かすニーズも生まれてきており、異分野の人たちが集まってさらにこの領域を盛り上げていくことも重要だと思っています。そのために私は、自身の研究を進めるだけでなく、各領域の研究者をはじめとするプレイヤーたちが集えるハブの1つになっていければと考えています」(安井教授)

安井教授が所属する京都薬科大学は、明治時代の初期にドイツ人のルドルフ・レーマン博士から西洋医学や薬学の知識を学んだ有志によって設立された「京都私立独逸学校」が礎となっています。「愛学躬行」という建学の精神は約140年たった現在にも受け継がれており、安井教授によると、卒業生たちはアカデミアや病院・薬局、製薬企業、行政だけでなく、さまざまな業界で学んだ知を実践に結びつけて活躍しているといいます。世代を超えたつながりも強く、安井教授は、「京都薬科大学が中心となったバラエティに富んだ人脈があるからこそ、新しいことを開拓していける」と、大学の環境も自身の研究の発展を後押ししていることを強調します。研究領域や業界を超えたネットワークを活かし、安井教授はこれからもその壮大なビジョンの実現に向けて、挑戦を続けていきます。

この記事に掲載された製品および得られた結果は、掲載日時点において、すべて試験研究用です。診断目的にご利用いただくことはできません。

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