7月21日に映画『バービー』(Barbie)と『オッペンハイマー』(Oppenheimer)が公開され、北米ではネットで「Barbenheimer」という造語が生まれる文化現象を起こした。『バービー』は着せ替え人形バービーの実写映画であり、『オッペンハイマー』は「原爆の父」として知られる物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯をクリストファー・ノーラン監督が伝記的ミステリーに仕上げた作品である。

2作品は今夏に最も期待されていた映画という点で共通しているが、中身は全てが対極的と言えるほど異なる。それが同じ日に公開されたことが人々の興味を惹き、2作品を立て続けにはしご鑑賞するイベントが行われるなど、これまでにない盛り上がりになっている。

  • 2スクリーンしかないウチの近所のミニシアターはコミュニティ投票の結果を受けて『オッペンハイマー』の上映を選択(もう1つは『ミッション:インポッシブル』)、『バービー』のポスターに「“他の”映画館で見てね」と手書きメッセージを追加

公開週末3日間の北米興行収入は『バービー』(Barbie)が1億6200万ドルでトップ、『オッペンハイマー』(Oppenheimer)は8245万ドルで2位だった。『バービー』に軍配が上がったが、シリコンバレーでは「Barbenheimer」なんてどこ吹く風という感じで、『オッペンハイマー』の話題が『バービー』を圧倒している。

『オッペンハイマー』は原子爆弾開発計画「マンハッタン計画」の功罪に取り組んだ作品であり、歴史を変えるような技術の存在と、それを扱う倫理的責任が大きなテーマの1つである。そんな当時の状況と「責任あるAI開発」が問われる今が重なるからだ。

それも当然で、ノーラン監督がオッペンハイマーに興味を持ったのは、AI分野の第一線の研究者達と会話する機会があった際に、彼らがAI開発の今を「オッペンハイマーの瞬間」と呼んでいたことだった。1940年代初頭にマンハッタン計画に参加した理論物理学者達は、議会からの反発や不確実性に直面した。

同じように今、AI技術の開発者が将来に何が起こるか把握しきれていない状況で、AIの高性能化を競っている。意図しない結果をもたらす可能性のある新技術を開発する科学者に、どのような責任があるのか? 『オッペンハイマー』は1940年代のストーリーだが、科学者のモラルに関する一般的な問題は80年後の今も「燃えさかる問題」であり、それが今どのように適合するかを考えて『オッペンハイマー』は作られた。

  • ドキュメンタリーではなく、主にオッペンハイマーの一人称視点で展開するユニークなストーリー。それゆえに、様々な議論を呼び起こしている「オッペンハイマー」(出典:Universal Pictures)

上映時間3時間の伝記的映画というと、観ていて「退屈するのではないか」と思う人もいるかと思うが、そこはノーラン作品である。娯楽作品としても一級品だ。ユダヤ系の優れた研究者達がロスアラモスの研究拠点に集まったことで技術的イノベーションが起こる過程は刺激的で、主役が才能を開花させる様子を楽しめる。しかし、彼らが参加していたのは未曾有の破壊兵器を開発する軍のプロジェクトである。研究者達は「トリニティ実験」の成功に湧き上がるとともに、悪魔的な恐ろしさを目の当たりにする。その演出と描写が巧みで、観ている人は知識としてしか知らなかったトリニティ実験のインパクトに身震いすることになる。この映画のハイライトだ。

もう1つの見どころが、原爆が投下されたことを知ってオッペンハイマーが強い衝撃を受けるシーン。それをきっかけに核兵器の国際的な管理を呼びかけるようになり、水爆反対活動に身を投じる。だが、米ソ対立の時代の中で「危険人物」と見なされ、赤狩りのターゲットになる。政治的サスペンスがもう1つのストーリーの軸として展開する。

今私達が直面している問題や危険を意識して『オッペンハイマー』を観た人は、不安な疑問や厄介な問題を抱えたまま映画館を後にすることになる。オッペンハイマーの核兵器の国際管理の呼びかけはある意味実現し、広島や長崎の悲劇は繰り返されていない。ただし、核兵器は製造が非常に難しいため、核兵器製造を監視しやすいという側面がある。それに比べて、オープンな共有が実現しているAI技術を同じような国際的な取り組みによって管理できるかは不透明だ。AIの問題には明確な道筋がなく、多くの倫理的ジレンマを含む。

『オッペンハイマー』は戒めの物語である。それは安易にパンドラの箱に触れるなと言っているのではない。それがパンドラの箱なのか、それとも宝箱か、当事者には判らない。しかし、触れてみたい好奇心は抑えられない。

ノーラン監督はCG嫌いで知られるが、AIの活用を否定しているわけではなく、破壊的であると同時に新たな大きな機会を生み出す強力なツールになる可能性を認めている。では、技術を前にした私達が今できることは何かというと、説明責任に目を向けること。例えば、AIの知識を「囲い込む」べきなのか、それとも「共有する」べきなのか、どちらのアプローチにも論拠がある。どちらも同じように他方の解決策に不満を覚えているが、説明責任が議論の中心にある限り、暴走が起こる可能性に対して一定の抑止力になる。

『オッペンハイマー』の日本公開は未定だ。被爆国である日本にとって、『オッペンハイマー』の表現や描写、米技術者の視点からのストーリーに対する評価はより複雑なものになる。例えば、広島・長崎を直接的に描写していないことを映画表現として評価する人がいれば、惨禍の実態を描写すべきという声も出てきている。政治的論争に発展する可能性も否めない。ただ、『オッペンハイマー』は核の問題にとどまらない「倫理的責任」の重さを問う作品であり、私個人としては日本でも鑑賞した人達による議論が広がってほしいと思う。