NHKの報道によると、今年7月に萩生田経済産業大臣(当時)が、革新的なビジネスを生み出すスタートアップ企業が集積するシリコンバレーに今後5年で1,000人規模の起業家を派遣して競争力の強化につなげる方針を打ち出した。シリコンバレーの企業経営者や投資家などにビジネスプランを提案し、意見をもらうことなどで起業家の育成を促すという。

どの段階やどのくらいの規模の起業を対象としているかにもよるが、「今さらシリコンバレーの時代ではない」というのが正直な感想だ。シリコンバレーは今でもスタートアップの聖地と見なされているものの、その魅力が急速に衰えている。特に初期ステージのスタートアップにとって厳しい環境であり、シリコンバレー以外の都市を選ぶ傾向が顕著になり始めている。

この10年でシリコンバレーは都会になった。新しい店が次々にオープンし、高所得者層を狙ってベイエリアから展開し始めるビジネスも少なくない。ものがあふれ、街での遊びに事欠くことはない。20年前はこうではなかった。ヒッピー文化の名残りのあるサンフランシスコ郊外ののどかな田舎だった。春先には北東のタホ湖からの帰りでスノーボードを積んだ車と、南西のサンタクルーズからの帰りでサーフボードを積んだおんぼろな車が高速道路ですれ違う。そんな地域だったが、今はそういう風景に出会うことはなく、街中Teslaだらけである。

スティーブ・ジョブズ氏が「自分がやってきたことと同じぐらい、やらなかったことにも誇りを持っている」という選択と集中の重要性を指摘した言葉を残しているが、集中には他の誘惑に惑わされない環境が必要だと思う。かつてのシリコンバレーは田舎で遊ぶ場所も少なかったが、工場や倉庫がそこら中にあってもの作りに最適な場所だった。

今のシリコンバレーは便利な街になったものの、もの作りの街ではなくなろうとしている。工場や倉庫は消え、製造だけではなく設計の仕事もシリコンバレーから海外に出ていき始めている。GoogleやMeta(Facebook)のようなソフトウェア開発が中心の企業が残り、それらが巨大化したことで連邦政府や州政府が規制の目を光らせるようになった。高い生活費と地方税、地価の高騰、年々厳しくなる規制。シリコンバレーで暮らし、起業することが年々困難になっている。しかし、シリコンバレーにいることでベンチャーキャピタル(VC)の関心を引きやすいのも事実。資金調達を成功させるために厳しいシリコンバレーに身を置く、ジレンマである。

そうした状況が新型コロナ禍で様変わりし始めた。

多くの人が一歩下がって、どのように働き、どこで暮らしたいかを見直すようになった。今も場所は重要な要素ではあるが、仕事と生活のバンドルが解かれ、シリコンバレーやニューヨークのようなテクノロジー人材ハブと呼ばれていた都市に集中していた才能の分散化が始まったのだ。

ベイエリアの人口は2020年から2年連続で減少しており、Joint Venture Silicon Valleyのサーベイに対して、56%が数年内のベイエリア外への引っ越しを計画していると回答している。

投資会社RevolutionとベンチャーキャピタルのPitchBookによるレポート「Beyond Silicon Valley」によると、ベイエリアのシード/初期ステージのスタートアップの資金調達額の米国のVC投資に占める割合が小さくなっている。2014年には40%以上がベイエリアのスタートアップに流れていたのが2021年9月時点で約27%に落ち込んだ。米国全体では活況であるにもかかわらず、シリコンバレーのスタートアップへの投資は10年前の水準に落ち込んでいる。

そうした中、9月末に、America Online(AOL)の共同設立者で現RevolutionのCEOであるスティーブ・ケース氏の新著「The Rise of the Rest」が出版された。

  • 9月27日に出版された「The Rise of the Rest: How Entrepreneurs in Surprising Places are Building the New American Dream」

    9月27日に出版された「The Rise of the Rest: How Entrepreneurs in Surprising Places are Building the New American Dream」

彼は、シリコンバレーやニューヨークのような都市以外でもイノベーションが起こり得るとして、バスに乗って地方都市を旅しながら起業家を発掘する「The Rise of the Rest」を2014年に開始。コロナ禍の中断を経て、この取り組みは現在も続いており、ジェフ・ベゾス氏(Amazon創業者)、エリック・シュミット氏(元Google CEO)、サラ・ブレイクリー氏(Spanx創業者)などが支援するシードファンドにも発展している。新著はそのバスツアーの記録である。

ケース氏があえてバスツアーという目立つ行動をしているのは「才能は均等に分散していても、チャンスはそうでないこと」を知ってもらうため。フロリダ州マイアミ、テキサス州のオースティンやダラス、ジョージア州アトランタのようなシリコンバレーに代わって成長中のテックハブではなく、チャタヌーガ(テネシー州)、タルサ(オクラホマ州)、ヨーク(ペンシルバニア)、オマハ(ネブラスカ州)、グリーンベイ(ウイスコンシン州)、ソルトレイクシティ(ユタ州)といったテック産業では見過ごされている都市の若い企業に光を当てようとしている。

  • America Onlineで米国初の「インターネットの玄関口」を作り、America OnlineとTime Warnerの合併でAOL Time Warnerの会長に就任したスティーブ・ケース氏。

    America Onlineで米国初の「インターネットの玄関口」を作り、America OnlineとTime Warnerの合併でAOL Time Warnerの会長に就任したスティーブ・ケース氏。

「VCはスタートアップのエコシステムの車輪である」とケース氏は述べている。今はまだ伝統的なテックハブにVC資金が集中する状況に変わりはないが、シリコンバレーなどを離れ始めた才能を引き付けられるようになれば資金の流れが変わっていく。そこからスタートアップ支援団体、投資家、大学、政府、地元メディアなどを巻き込み、それらを車輪のスポークに車輪を回転させる。これまでは企業の誘致に成功した都市が人を引きつけていたが、これからは人々に移り住みたいと思わせる都市がビジネスや資本を引きつける。小さな都市にも大きなチャンスがあると見る。

「The Rise of the Rest」では29都市を紹介しているが、バスツアーでは44都市を訪れており、最終的には約100都市への投資を見通している。これは米国に限った話しではなく、米国のテックハブからの人材と資本の分散は世界中に広がっているのだ。

だから、日本が今、起業家を育成するプログラムを組むなら、今のシリコンバレーから学ぶのではなく、今のシリコンバレーの硬直化と新たなテックハブの動きに注目するべきだと思う。

ちなみにケース氏は、初期ステージのスタートアップを育むエコシステムの条件として「生活と運営のコストが低いこと」、そして「集めた資金をより多く使えるということ」を挙げている。また、その地域に存在する企業や大学の専門知識もカギになるとしている。例えば、ジョージア工科大学は航空宇宙分野で有数の専門知識を有しており、航空宇宙の中心地であることからHermeusがアトランタを拠点にマッハ5の極超音速航空機を開発している。国内最大手のトラック運送会社が本社を置くテネシー州チャタヌーガなら、トラック輸送と物流のビッグデータを扱った事業を展開しやすい。既存の企業、大学や地方政府の協力を得られるコラボレーションしやすさも重要になる。

そして、過去のシリコンバレーから学ぶべきこととして文化を挙げる。目先の成否ではなく、ビッグアイディアや大きな可能性にフォーカスするのを良しとするユニークな文化がシリコンバレーには根づいていた。他の多くの地域はより慎重で、リスクを避け、現状維持志向が強い。テックハブを目指す都市は、その意識を変えることが重要とのことだ。