古いことわざで“風が吹けば桶屋が儲かる”というのがある。「ある事象が起こることによって意外なところに影響が出る」という事の例えで、とかく世の中の事象は複雑な因果関係で絡み合っている事を面白おかしく表現したものである。

「化石エネルギーの消費過多➞地球の気候変動➞ゲリラ豪雨の増加➞自然災害の深刻化➞大きな経済損失」などの喫緊の事態についての因果関係についても近年ますます真剣な議論がされるようになっているが、複雑に相互作用する半導体業界にも同様なことが言える。

最近のソフトバンク・グループ(SBG)の“Arm株の売却”への言及でこの諺が頭に浮かんだ。果敢な投資を継続してきたSBGが昨今の財務状況の悪化を解消する手立てとしてArmの売却も検討を進めていることには驚いた。孫会長が自ら関わり、巨額の買収劇でArmを手に入れたSBGがわずか4年でそれを手放す決断をしたことは驚きだったが、その交渉相手としてNVIDIAが有力視されているという報道にも驚いた。

PC/サーバーの標準であるx86の対抗軸となりうるArm

AMD/IntelとNVIDIAの関係は興味深い。AMDとIntelはx86マイクロプロセッサーの事実上の寡占企業であるが、AMDはNVIDIAとはGPU市場で寡占状態にある。AMDとIntelはPC/サーバー市場では熾烈なシェア争いを続けていて、AMDのシェアが増加すればIntelのシェアが減るという非常にわかりやすい2項対立関係にある。この構図はGPU市場でのAMDとNVIDIAでも同じことが言える。

しかし、この3社に共通しているのはスマートフォン市場でまったく存在感がないことである。この状態にあってNVIDIAがArmコアを手にした場合、AMDとIntelにとっては長期的に言えばかなり厄介な存在となる可能性はある。

  • Arm

    今や世界中の人が利用するようになったスマートフォンのSoCにはほぼArmコアが用いられている。同社の調べによると世界人口の約7割の人が同社の技術を利用しているという (出所:Arm発表資料)

というのもPCベースのプラットフォームはスマートフォンにその場を譲りつつあり、その低消費電力とスケーラブルなアーキテクチャーで既にスマートフォンの標準になっているArmアーキテクチャーは、次第にPC/サーバー市場へ進出する可能性を持っている。最近の例で言えばAppleは自社のMacにArmコアベースのApple Siliconを採用することを決定したし、2020年6月版のTop500において1位に輝いた日本のスパコン「富岳」は富士通が設計したArmコアベースのCPUを使用している。

PCプラットフォームはWindowsをベースとした膨大なソフトウェア資産に支えられているので、そう簡単にx86がArmに置き換えられるとは考えられないが、今までArmが参入できなかったこれらの市場ではNVIDIAのGPUとArmコアベースのSoCの組み合わせは大きなポテンシャルを持つと考えられ、NVIDIAのやり方次第では長期的に見ればAMDとIntelにはかなりの脅威となる。

  • NVIDIAのジェンスン・フアンCEO

    GTC Japan 2018のキーノートに登壇した際のNVIDIAのジェンスン・フアンCEO (編集部撮影)

しかし、長年NVIDIAを率いてきたCEOのジェンスン・ファンが思案を巡らせているのはむしろAMD/Intelのx86マイクロプロセッサー陣営の外側にある巨大市場であろう。

PC/サーバー市場の外に存在する複雑の相互関係

すでにArmコアが標準となっているスマートフォン以外の、PC/サーバー、タブレット、組み込み、自動運転、AIなどの分野ではどのようなことが予想されるだろうか?

Armの引受先としてNVIDIA以外にもApple、Samsung、TSMCなどが話題に上っていたようだが、現在ではNVIDIAが一番有力な交渉者であるらしい。ここで重要な点は、現在のNVIDIAはArmのカスタマーの1つであるということである。

もしNVIDIAがArmコアを手に入れるとすれば、その他のArmのカスタマーは競合関係にあるベンダーからArmライセンスを受けることになる。Armコアを世界で一番売っていると思われるQualcommはその市場をスマートフォン以外にも拡大しようとしており、そのターゲット分野はNVIDIAのそれと重なる部分がある。しかも長年培った堅固なモデム技術もある。

そのQualcommがNVIDIAと長期的な信頼関係を結ぶことができるとはなかなか考えにくい。すでにArmの買収意向がないと伝えられるAppleは自社開発半導体Apple Siliconのプロジェクトを進めていて、その中にはCPUのみならず将来的にはNVIDIAのコアビジネスであるGPUも含まれているといわれる。Google、Facebook、Amazonなどのプラットフォーマーも自社開発のAIチップにはもっぱらArmコアを使用しており、これらの巨大企業が自社開発の基幹半導体のコアを特定の半導体ベンダーのライセンスに頼ることも戦略的には考えにくい。

NVIDIAは主力製品のGPUの技術を深層学習、AI、自動運転などに広げつつあり、これらの分野ではGAFAだけでなく組込用半導体ベンダーなどがいて、これらもNVIDIAとは競合関係にある。NVIDIAと唯一競合関係にない半導体メーカーは世界最大のファウンドリ会社であるTSMCであるが、TSMCは従来より最先端プロセスの開発でArmとは緊密な関係を持っている。これがNVIDIA傘下となったArmとの共同開発となるとファウンドリとしての中立性には疑問符が付く可能性がある。こう考えてくると、NVIDIAの野望はそう簡単には実現しそうにないように見える。

  • Arm

    ArmのIPはスマホに留まらず、さまざまな分野で活用されるようになってきた (出所:Arm発表資料)

Arm株のNVIDIAへの売却に反対するArm共同創立者

先日、海外メディアの記事で大変に興味深い記事が載っていたのでご紹介する。英国ケンブリッジに創立されたArm社の共同創立者Hermann Hauser氏が英国BBCのインタビューに答えた記事である。

Hauser氏はArm株のNVIDIAへの売却は「Disaster(壊滅的な結果を産む)」というかなり強い言葉で反対意見を述べている。Hauser氏の主張は次の通りだ。

  • Armの価値は「誰にでも売れる中立性」を持つビジネスモデルにある
  • SBGがArmを取り込めたのはSBGが自らがチップ生産をせずにケンブリッジにあるArmコアの開発拠点にリソースを投入する用意があったからだ
  • もしNVIDIAがArmを取り込んだら、ユーザーは競合から最重要技術をライセンスされる事態となり、離反者が続出するだろう。その場合Armの対抗技術に向かう可能性は十分にある(私の考えではHauser氏はRISC-Vを想定しているのだと思う)
  • Armは英国の技術の宝であり、英国政府はArmを公開株として英国に買い戻すべきだ

Arm創立者の一員としての誇りと意地が感じられるコメントである。Arm(Advanced RISC Machine、それ以前はACORN RISC Machine)は1983年に英国で創業された老舗マイクロプロセッサー企業である。私はACORN時代からその名を知っていたが、その当時この英国の小企業が開発したアーキテクチャーが現在のスマートフォンの標準になろうとは誰も想像しなかった。

新型コロナ対策に奔走する英国政府にArmを買い戻す財政的な余裕があるかどうかは別として、米中の技術覇権の真っただ中で最先端の技術プラットフォームの中核ともいえる技術であるArmアーキテクチャーが、米国のNVIDIAの手にわたるとなればその影響には計り知れないものがある。Armはあまりにも急激に普及し、市場構造はあまりにも複雑になった。

「SBGのArm株放出で桶屋になるのは誰か」、はそう簡単な問題ではない。