最初に伝えておきたい。今回、登場する起業家であるデフサポ 代表取締役 牧野友香子さんには重度の聴覚障害がある。音が聞こえないため、相手の口元の動きを読む「読唇術(読話)」で相手の言葉を理解する。
自身の経験を生かし、聴覚障害児を対象とした言葉のトレーニング教材「デフゼミ」の開発・提供を行う牧野さんの話を伺う前に、聴覚障害者のリアルを押さえておきたい。
聴覚障害者向けに言葉の支援をしたい
聴覚に障害のある人と接したことはあるだろうか。こんなデータがある。日本では年間の出生数81万人に対して、1,000人に1人の割合で聴覚障害児が生まれる。つまり、全国で1学年に800人程度の聴覚障害児がいるということだ。
彼らの9割以上は耳が聞こえる両親のもとに生まれる。このことが意味するのは、聴覚に不自由のない両親が、聴覚障害の子どもと向き合う難しさだ。難聴児の教育に関する情報は多くはなく、子どもの学習や進学についても悩みを抱えることになる。
昔はろう学校に進む聴覚障害児が多かったが、現在では約7割が地域の学校(難聴学級などを含む)、約3割がろう学校を選んでいる。
背景にあるのは人工内耳(※)の普及と補聴器の進化もある。その結果、多くの子どもたちが遠方のろう学校ではなく、通いやすい地域の学校を選択できている。
※補聴器の効果が十分に得られない重度の聴覚障害者は人工内耳手術を選択するケースがある。ただし、人工内耳をつけても聴者と同じように聞こえるわけではなく、粘り強くリハビリテーションを行うことは欠かせない。
ただ、技術の進化だけで聴覚障害児や家族の課題が解決するわけではない。聴者と比較すると、学習や進学、コミュニケーションにハンデを負っているのは明らかだ。「就職事情」についていうと、士師業のように生涯続けられる安定した職業につく聴覚障害者も中にはいるが、全体を通してみるとまだほんの一握りの人に過ぎない。
職業の選択肢は少なく、多くは希望とは異なる仕事をすることが多い。ジョブホッパーになる人も多く、特に年齢が上がるにつれて転職先がなくなり、働きたくても働けない苦悩を抱える人もいる。
また、聴覚障害者の7割近くが月収18万円以下というデータ(「聴覚障害者の進学と就労――現状と課題」坂本 徳仁 2011/07/22)も存在する。
「前職(ソニー)で人事をしていたこともあり、はじめのうちは、そういった聴覚障害者の就職支援事業も視野に入れていました」と牧野さんは語る。
しかし、事業の対象となる求職中の若い聴覚障害者たちと接していると、日常会話はできたとしても踏み込んだ話が難しかったり、正しい日本語を使えなかったり、自分で考えることが苦手だったりと、就職や転職、仕事の現場で不利になると思われる状況を目の当たりにして、言葉を自由に使える方が大事だと、事業内容を検討し直すことになる。
「聴覚障害者向けに言葉の支援を始めたい。できるだけ早い時期から学ぶのがいいので、赤ちゃん~子ども向けの教材を作ろう」と考えた牧野さんはソニー在籍中の2017年にデフサポを設立。牧野さんにデフゼミをはじめとするデフサポの事業を通じて実現したい世界について話を聞いた。
難病の子どもを抱えて、起業を決意
牧野さんは飛行機の轟音が聞こえない。聴覚障害の中でも重度であり、「音のない世界」で暮らしていると言っても過言ではない。2歳で難聴が判明後、2歳半から補聴器をつけて生活し、自分が発する声も人の声もほぼ聞こえないが、口話で聴者と同じように会話をする。
登録者数数10万人超となった自身のYouTubeチャンネル「デフサポちゃんねる」でも、テロップで「耳が聞こえない」と表示されない限り、聴覚障害がある人とは思えないほどだ。このインタビューもZoomで会話しながら行った。
相手の口の動きが見える限り、円滑にコミュニケーションできるのは、幼幼期に自然と読唇(読話)を習得して、発話は練習を重ねたことが大きい。地域の幼稚園に通いながら、2歳半から小学校高学年までに月1回、個人運営の難聴児向け教室(ことばの塾)で発音や言葉の基本、応用を学んだという。
幼稚園から地域の公立園に通い、小中高も地域の学校に通って神戸大学に進学し、新卒でソニーに入社してからは、人事部で労務を主に担当。在職中に生まれた第一子が50万人にひとりといわれる骨の難病を抱えていたことが、起業を決める大きなきっかけとなった。
「世の中には障害のある子どもの支援や育児相談(療育)、リハビリなどのサポート体制が不十分だと、障害のある子どもを抱えて痛感しました。ロールモデルがいないことで、我が子がどうなるのかの未来がまったく見えず、相談できる相手もなかなかいません。思い悩む中で、私は我が子の障害については初心者ですが、自分自身の聴覚障害とは30年近く付き合ってきました。障害当事者でもあり、障害児の親でもある私だからこそ、聴覚障害のある子どもや親御さんをサポートすることができるのではないかと気づき、ソニー在職中の2017年にデフサポを立ち上げたのです」(牧野さん、以下同)
個々に合わせていく教材とサポート体制で寄り添う
デフサポは、後述する難聴児への教育事業(デフゼミ)をはじめ、企業へのコンサル(ダイバーシティ、就労、製品開発など)、聴覚障害の啓発事業と3本柱で事業を展開。
デフゼミは難聴児向けの教材で、言語レベルの年齢に合わせて、0~2歳ごろを対象としたベビー、3~6歳ごろを対象としたキッズ、小学生を対象としたジュニアの3コースを用意している。
親子で使うことを想定した教材は社内で作成。開発・監修メンバーには言語聴覚士とオーディオロジストや司書、特別支援教諭などのさまざまな専門家と当事者、当事者の親がいて、彼らの力を結集してできた教材は月初めに契約者のもとへ届く。
教材の中身を少し見てみよう。キッズコースは難聴児の苦手な言葉が多く、子どもによって得意不得意が大きく分かれるという。
そこで、教材送付から3週間後に、親に進捗確認やカウンセリングを行った後、教材を「調整」する。不得意なものを強化したり、レベル調整をしたりするなど、各子どもに適した内容にしたものを翌々月に送付するのだ。
レディメイドの教材がセミオーダーメイドの教材へと変わり、“得意”を磨き、“不得意”を強化していく心強い相棒になるといえよう。
一方、ジュニアコースの要となるのは、聴覚障害時に必要なソーシャルスキルトレーニングだ。難聴児が地域の学校で過ごすためのポイントや、自分の補聴機器のことについて知ることを目的に出されたワークが多い。
例えば「難聴の先輩が学校生活でしんどかった体験やそれとどう向き合ってきたか」といった体験談や補聴器・人工内耳の仕組み、聴力検査の結果の見方などを載せるなどして、自身の生活に生かしてもらうことを想定している。
「1~3カ月学んだからといって、言葉のスキルが急に大きく向上するわけではありません。むしろなだらかに変わっていくことが多く、半年~1年ほど続けてようやく変化が見えてくるといえます。ただ、聴覚障児の教育がうまくいくかどうかは、親御さんのモチベーション維持にかかっています。そのため私たち運営側とLINEでつながり、言葉のことだけでなく進路や生活面でも悩むことがあればいつでも相談に乗る仕組みを作っています。また、定期面談がビデオ電話であり、4~6カ月に一回は顔を合わせてお話を伺っています」
デフゼミに関する相談に限らず、「子どもが補聴器をつけてくれない」「小学校は地域の学校にするかろう学校にするか決めかねている」といった生活全般に関する悩みも多く寄せられるという。
当事者や専門家それぞれが自分の得意な分野を生かして、聴覚障害児を持つ親の悩みに寄り添っている。
障害児もその親も好きな働き方ができる社会へ
そんな真摯な対応やYouTubeチャンネルを中心とする発信を通じて、デフゼミを知って救われる親子が多数出てきているが、サービスの認知・利用拡大を図る上で課題はあると牧野さんは語る。
「マーケットが小さい分、広げていくのはなかなか難しいです。ただ、私たちはデフゼミの対象になるような聴覚障害児や親御さんに限らず、世のすべての人に対して『聴こえない人』の存在を知ってほしいと思いながら活動しています。日ごろ、いつどんなシーンで聴覚障害者と出会うかわかりません。また、聴覚障害児の9割は聴者の親から生まれてくることからも、多くの人が聴覚障害に関心を持ち、知っておくことは、自身や周囲の人たちの生きやすさにつながるとも思っています」
牧野さんは「“聞こえない”にはマイナスのイメージがつきまとうかもしれませんが、自分の在り方次第で楽しく過ごせる」と話す。自身の発信を通じて希望を伝える試みを続けている。およそ30年前、牧野さんの母が子育てをしていたごろはネットがなく、聴覚障害児の教育に関する情報は今よりも格段に少なかったが、現在は動画やSNSが普及したおかげで、情報を広げていきやすくなっている。
2018年3月にソニーを退職し、以降はデフサポの事業にコミットする牧野さん。現在は専門家5名、当事者2名、内部スタッフ3名、SNS(編集や運用)スタッフ5名の計15名で構成される、全国各地にいる仲間たちとリモート環境で事業を進めている。さらに、デフサポとは別のマーケティング会社であるMASSDRIVER(マスドライバー)を夫婦で立ち上げた。
「障害のある子どもがいると働きたくても働けないという親御さんをたくさん見てきました。障害児や病気を持つ子どもがいる親御さんは、どうしてもリハビリや療育に追われたり、在宅が必須だったりします。そんな親御さんが自分で仕事をして成果を出せるように、マーケティングを専門にしたオンラインベースの会社を作りました。私たち夫婦も難病の子どもを育てていますが、オンラインで成果をしっかり出しています。例えば1週間に2回程度でも仕事をして、世の中とつながれる安心感を親御さんたちに得てもらえたらと思っています」
MASSDRIVERでは、障害や難病を抱える子どもを持つ親たちと共に働いている。互いの子どもが似た環境にあると理解もしやすくサポートしやすい状況があるという。この会社を通して得られる経験はデフサポの運営に還元できているそうだ。
デフサポの事業はSDGs目標「4.質の高い教育をみんなに」を叶えるものだ。牧野さんはそれを実現した先にある「障害のある人やその家族が生き生きと働いて、充分なお金を稼ぐのが当たり前になる社会」を見据えている。障害者本人や障害児を持った親が仕事や働き方を制限されたり、仕事を辞めたりしないといけない現状は教育と環境を通じて変えられる--そう信じて活動を続けていく。