IBMとマンチェスター大学、オックスフォード大学、スイス連邦工科大学チューリッヒ校・ローザンヌ校、レーゲンスブルク大学で構成される国際研究者チームは3月5日(米国時間)、分子内を電子が螺旋状に移動することにより、化学的性質を根本的に変えるような構造を持つこれまでに類を見ない分子を創成し、その物性を明らかにしたことを発表した。この研究は、単一の分子内で半メビウス型の電子トポロジーが観測された初めての実験結果としてScience誌に掲載された。

  • 量子ハードウェアを用いた計算で得られた新規分子に付着した電子のダイソン軌道

    量子ハードウェアを用いた計算で得られた新規分子に付着した電子のダイソン軌道

合成、観測されたことがない分子

研究者の間では、このようなトポロジーを持つ分子がこれまで合成、観測されたことはなく、公式に予測されたことさえなかった。分子の性質を電子構造レベルで理解するには、高精度な量子コンピューティングによるシミュレーションが不可欠だった。

今回の発見は、科学の2つの領域を発展させるものだという。化学分野においては、電子トポロジー(分子内での電子の移動を制御する性質)が単に自然界に存在するだけでなく、意図的に設計可能であることを示している。

量子コンピューティング分野においては、分子レベルでの量子力学的な性質を直接再現することで、これまでの手法では得られなかった科学的知見に到達する、という量子シミュレーションが本来の目的を果たせるという具体的な実証になったとのこと。

分子(化学式 C₁₃Cl₂)は、オックスフォード大学で合成されたカスタム前駆体から、IBMにおいて原子一つひとつを組み立てて作成されたものとなり、超高真空下かつ絶対零度に近い温度で、精密に調整された電圧パルスを用いて原子を一つずつ除去する手法が用いられた。

IBMが開拓した技術である走査型トンネル顕微鏡(STM)と原子間力顕微鏡(AFM)に量子コンピューティングを組み合わせた実験により、既存の化学分野には類例のない電子構造が明らかになった。電子構造は回路ごとに90度ねじれ、開始段階に戻るには4回の完全なループが必要となる。

QPU、CPU、GPUの統合で、システムの得意分野に応じて分割・調整・解決

半メビウス型の電子トポロジーは、これまで知られていたいかなる分子とも異なる性質を持ち、時計回りにねじれた状態、反時計回りにねじれた状態、そしてねじれのない状態のいずれにも可逆的に切り替えが可能。これは電子トポロジーが単に発見されうる性質ではなく、特定の条件下で意図的に設計可能なものであることを実証しているとのことだ。

  • 左:新たな半メビウス型分子の電子軌道の密度を示す走査トンネル顕微鏡(STM)画像、右:IBM量子コンピュータを用いたシミュレーション結果から作成した同分子の電子軌道の密度

    左:新たな半メビウス型分子の電子軌道の密度を示す走査トンネル顕微鏡(STM)画像、右:IBM量子コンピュータを用いたシミュレーション結果から作成した同分子の電子軌道の密度

実験に参加した科学者は、これまでに存在しなかった分子を作り出し、なぜ分子を作ることができたかを明らかにする必要があった。これは従来のコンピューターでは困難な作業であり、C₁₃Cl₂内の電子は互いに深く絡み合った形で相互作用し、それぞれが他のすべての電子に同時に影響を与える。

この挙動をモデル化するには、それらの相互作用のあらゆる組み合わせを同時に追跡する必要があるため、計算量が指数関数的に増大し、従来のコンピューターではすぐに処理不能に陥ってしまう可能性がある。

しかし、量子コンピューターは分子内の電子を制御する量子力学の法則に従って動作し、これらの量子系を近似的ではなく直接的に表現できるため、量子コンピューターの特性が科学的成果を生み出す要因になったという。

この特性により、量子コンピューターは、量子を中心としたスーパーコンピューティングワークフローを用いることで、実験を支援できる可能性がある。量子を中心としたスーパーコンピューティングでは、量子処理ユニット(QPU)、CPU、GPUを統合することで、複雑な問題が個々のシステムの得意分野に応じて分割・調整・解決されるため、単一の計算方式では達成不可能だった成果を実現できる。

このようなワークフロー内でIBMの量子コンピューターを駆使した結果、研究チームは電子付着のための螺旋状分子軌道、つまり半メビウス型の電子トポロジーを示唆する特徴を発見した。さらに量子コンピューティングによるシミュレーションは、特異なトポロジー形成のメカニズム、すなわち螺旋状擬似ヤーン・テラー効果の解明に貢献したとのことだ。