東京大学(東大)と科学技術振興機構(JST)の両者は8月28日、シリコン空孔(SiV)中心の電子スピン量子ビットに対し、状態の測定とその測定結果に応じたフィードバック操作を繰り返し行うことで、量子情報の“流れ”を活用して熱力学的エントロピーを減少させる「マクスウェルのデーモン」を実験的に実現したと共同で発表した。
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(a)今回の実験系の模式図。シリコン空孔中心の電子スピン量子ビットに対し、繰り返し光学的に測定し、その結果を高速処理でフィードバック。(b)直近の測定結果のみに基づくマルコフ的なフィードバックプロトコル。(c)過去の測定結果の履歴も活用した非マルコフ的なフィードバックプロトコル(出所:共同プレスリリースPDF)
同成果は、東大大学院 工学系研究科 物理工学専攻の矢田季寛大学院生、同・沙川貴大教授(同・工学研究科附属 量子相エレクトロニクス研究センター兼務)、同・吉岡信行助教(現・東大 素粒子物理国際研究センター 准教授)らの国際共同研究チームによるもの。詳細は、米国物理学会が刊行する物理学と応用物理学を扱う学際的な学術誌「Physical Review X」に掲載された。
エネルギー効率に優れる量子制御の実現へ前進
1867年、英国の物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、熱力学と情報の深い結びつきを示す思考実験を提起した。その内容は、箱の中にある多数の気体分子の速度を外部から測定し、その結果に応じて分子を選り分ける存在がいれば、箱内の気体のエントロピーを減少させられるはず、というものだ。この選り分ける存在が「デーモン(悪魔)」とされたことから、「マクスウェルのデーモン」という言葉が誕生した。
この思考実験は、外部との熱のやり取りがない系ではエントロピー(乱雑さ)が減少し得ないこと、つまり一方的により乱雑になっていくことを意味する「熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)」に反するように見えるため、それ以降も盛んに議論が行われてきた。
これまでの理論研究によって、対象の系に対し外部から測定・制御を行うデーモンがいる場合、両者の間の情報のやり取りを考慮し、熱力学第二法則や、確率的に起こる個々の軌跡でのエントロピー変化や散逸熱などを直接特徴づける法則「ゆらぎの定理」などの基本法則を拡張する必要があることが明らかにされている。デーモンの効果を反映した拡張熱力学第二法則では、系とデーモン間でやり取りされる情報の分だけエントロピーが減少し得る。これにより、デーモンの働きを従来の熱力学と矛盾なく説明できることがわかり、熱力学と情報理論の根本的な関係が明らかにされつつある。
近年の実験技術の発展により、デーモンは単なる理論上の存在ではなく、実験的にも実現可能になりつつある。特に、古典物理学の範囲で記述できる「古典系」では、測定で得られた情報を仕事の取り出しや、系の熱力学的エントロピーの低減といった熱力学的な利得に変換する操作が、すでに多様な実験で実現されている。一方、量子力学で記述される「量子系」では、実験的な実装はまだ限定的で、特に、測定・制御を繰り返し行うことで量子情報の流れを活用して利得を取り出すデーモンは、これまで実現されていなかった。
そこで研究チームは今回、SiV中心の電子スピン量子ビットを用い、状態の測定とその測定結果に応じたフィードバック操作を繰り返し行うことで、量子情報の流れを熱力学的な利得(ここでは系の熱力学的エントロピーの減少)に変換するデーモンを実験的に実現することを目指したという。
今回の実験で実装された量子制御は、レーザー光による量子状態の読み出し、FPGAによる信号処理、そしてマイクロ波による量子操作の各プロセスで構成され、これらはシステムの「コヒーレンス時間」(量子的な性質が失われるまでの時間、今回は約4.08マイクロ秒)よりはるかに短い時間で正確に実行されている。
また今回の研究では、過去の測定結果の履歴を活用する「非マルコフ的なフィードバック」が、直近の測定結果だけに基づく「マルコフ的なフィードバック」と比べ、制御の熱力学的な性能がどれくらい向上させられるかを評価する新しい理論が構築された。さらに、この非マルコフ的なフィードバックを実験的に実装し、マルコフ的なフィードバックよりも熱力学的な性能が向上していることが解明された。
これらの成果により、SiV中心の系に対して繰り返し測定やフィードバック操作を行うことで、先行研究で導出されていた拡張熱力学第二法則や拡張ゆらぎの定理、そして今回の研究で新たに導出された法則などの実験的な検証が達成された。
今回の成果は、量子状態の生成や安定化などを目的とした量子制御を、より効率的に行う手法の設計につながることが考えられるという。また今回の研究は、反復的なフィードバック制御を含む「量子熱機関」(量子的な重ね合わせなどの効果を活用し、古典的な熱機関よりも高い効率やパワーを達成できる可能性のある熱機関)や、「量子バッテリー」(量子的な重ね合わせや量子もつれなどを利用し、古典的なバッテリーよりも充電速度や充電密度を高められる可能性があるバッテリー)の性能を評価するための理論的な基盤になることが期待されるとしている。

