熊本大学と永青文庫は9月6日、2022年、細川藤孝(1534~1610)を初代とする大名肥後細川家に伝来した数多くの歴史的資料などが保管されている永青文庫と、同・大学 永青文庫研究センターとの共同調査によって、永青文庫の収蔵庫から新たに60通目となる織田信長発給文書が発見され、慎重に検討を重ねた結果、信長が、「室町幕府の滅亡」(将軍足利義昭(1537~1597)の京都没落)の前年にあたる元亀3(1572)年8月15日に、藤孝に出したこれまでに知られていない書状であることがわかったと共同で発表した。
なお、今回発見された書状の原本は、永青文庫で2024年10月5日~12月1日に開催される秋季展『熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念「信長の手紙」』に出品される予定だ。
今回のキーマンである藤孝は、室町幕府家臣の三淵家に生まれ、13代将軍義輝の奉公衆として台頭し、義輝暗殺後はその弟の義昭の側近として、義昭と信長を結び付け、幕府の再建に尽力した人物だ。義昭の京都没落に際しては信長のもとに残り、信長の直臣大名として活躍。また豊臣政権のもとでは秀吉の文化ブレーンとなり、徳川幕府においては、近世大名肥後細川家の初代となった人物である。
今回発見された書状の内容は、「八朔(8月1日)の祝儀の詞を承りました。わけても帷子かたびら2着を送っていただき、その懇切ぶりに感謝します。今年は『京衆』(将軍義昭の奉公衆)は誰一人として手紙や贈物を寄越してきません。その中にあってあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる。この上なくめでたいことです。鹿毛の馬を贈ります。乗り心地は悪くないと思います。あなたには方々で骨を折っていただき心苦しいのですが、いまこそ大事な時です。『南方辺』(山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください。あなたの働きこそが重要なのです。なお、具体的には他の案件と一緒にお伝えします。8月15日 信長から細川藤孝殿へ」というものだ。
書状で重要なのは、何年に出されたかという点。当時は、書状に年号を書き入れないのが作法であったため、他の文書や記録を手掛かりに推定する必要がある(書状の年代比定)。藤孝は、「志水家文書」などから、義昭没落直後の天正元年(=元亀4(1573)年)8月2日には苗字を細川から「長岡」へと変えていることが確認されている。そのことは、「細川兵部大輔(藤孝)」に宛てた8月15日付の今回の書状の年代は、元亀3年以前となる可能性が極めて高くなることになる。次に花押型は、元亀4年2月の信長書状(永青文庫所蔵)のそれと同一ではないが類似し、元亀2年に比定される信長書状(革嶋家文書ほか)のそれとは大きく異なっている。さらに、内容から見ても、義昭没落前年にあたる元亀3年に比定するのが適切とされた。
なお、信長と義昭は最初から対立していたわけではなく、その逆で、永禄11(1568)年10月に、信長が義昭を推戴(すいたい)して上洛し、幕府体制を樹立している。しかし、その後、両者の仲は悪化していき、元亀4年2月には義昭が信長に対して挙兵。さらに同年7月には再度挙兵するが失敗し、室町幕府は滅亡することになる。その経緯を知る上で、今回の書状には非常に重要な以下の新情報が含まれているという。
元亀3年初頭の段階で、信長と義昭側近衆(「奉公衆」)との関係がほぼ修復不能なまでに悪化していたこと
ところが、義昭の側近中の側近だった細川藤孝ただ一人が、信長と通じていたこと
当時、岐阜にいた信長は藤孝を頼り、藤孝を通じて、山城(現・京都府南部)から摂津・河内(現・大阪府)方面の領主たちの信長方への組織化を、半年にもわたり進めていたこと
今回の書状から、藤孝による畿内領主層の信長方への組織化が元亀3年8月ごろから本格化した事実が判明し、翌年2月の義昭の信長への「逆心」・挙兵の時点で、すでに半年にも及んでいたことが明らかにされた。これは、義昭の反信長の挙兵が畿内領主層の協力不足のために不発となった事実を考える上でも、とても重要だという。 信長の権力のあり方を大きく左右した細川藤孝の存在がクローズアップされる形となった。室町幕府の政治が混迷の一途を辿った元亀年間(1570~1573)、信長の京都における頼みの綱が藤孝だったのである。藤孝は13代将軍の義輝や義昭の配下として活躍したが、最終的には「室町幕府の滅亡」を実現させるキーマンともなったことになる。今後は、信長と幕府権力のあり方を大きく左右した細川藤孝の畿内領主層との人脈、当該時期における彼の具体的活動や政治思想を究明することが、「本能寺の変」を含む織田政権期の政治史研究にとっての大きなテーマとなるとしている。